ニューヨークの帝王

①首折り事件
世間に流布されている真相説↓
ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンを主戦場とするWWWF(現WWE)の帝王サンマルチノが、自分が対戦するメインイベントの相手として、中堅時代のハンセンをとある人物から薦められた。プロモーターはビンス・マクマホンだが、推薦人物は先にサンマルチノにコンタクトをとるようにハンセンに忠告した。ハンセンはその忠告を守り、先にサンマルチノと会談した。サンマルチノによると、マクマホンと自分は円滑な関係ではなく、最も大事なタイトル挑戦者選びはマクマホンが取り仕切っていたというが、「君なら間違いないと思う。全力でブツかってきてくれ」とハンセンを挑戦者として承諾した。ハンセンは続いてマクマホンとコンタクトをとったが、「ブルーノが連れて来たんだ。細かい話はブルーノとしてくれ」と投げ遣りな言葉を返された。頭に来たハンセンだが、せっかくのメインイベンターとしてのチャンスをふいにはできないので、我慢することにした。
結果として、 急角度で落下させたボディスラムでサンマルチノの首を負傷させ、しかもラリアットの連発を浴びせたため、以前から首の状態が思わしくなかったサンマルチノは入院、2か月の長期欠場となった。「チャンピオンを怪我させて、どう責任とってくれるんだ!」とマクマホン側の批判は厳しく、ハンセンも顔面蒼白となったが、あらかじめ根回ししていたサンマルチノは、「ハンセンを責めないでくれ。1日も早く回復してみせるから」と擁護したという。結果、WWWFはサンマルチノの穴埋めとしてハンセンを使い続けることになり、事情を知らない観客からは「俺達の英雄を怪我させたハンセンを許すな!」と非難を一身に浴びることとなった。サンマルチノが復帰しハンセンの契約が切れる頃、マクマホンから「契約を 延長してやってもいい、その気があるならサインしろ。応じられないなら新日本プロレス行きを考えてやる」と言われ、時間をもらいサンマルチノに相談した。サンマルチノは「現状を考えると新日本行きが一番ベター(良い選択)だろう。マクマホンは君に興行収入の何パーセントの還元も約束してくれていないのだろう?」と新日本行きをハンセンに提案した(スター選手に興行収入の数パーセントの還元が約束されるのはアメリカのプロレス界でよくあった慣習で、WWWFでもサンマルチノらにはその待遇が与えられていた)。事情を知らないマスコミは2人には遺恨があると誤解し、「ハンセンはWWWFから追放された」などと報じた。  』 出典→Wikipedia
しかし、真実のところは、ビンスマクマホンは、自分の組織のトップスターであるブルーノの ことが疎ましく(ギャラの高騰やイタリア系と言うのも理由で明らかに差別意識を持っていた。)ブルーノに替わる時代のスターを探していた。そこへ、スタンハンセンがあらわれた。不器用にもハンセンはウエスタンラリアートでブルーノの頸椎を負傷させたというが当たっていると言えよう。
 
②ブルーノと馬場
  ジャイアント馬場とアメリカでは馬場さんは呼ばれることはない。ジャイアントがアメリカでは化け物と言うニュアンスに近いからだ。そんなら、アンドレジャイアントは?というと、イコール前名の「モンスター・ロシモフ」を思い出してほしい。ジャイアント=モンスターなのだ。修業時代の馬場選手はビッグ・ババ。NWAの役員になってからはショーヘイ・ババと呼ばれている。
 次に、サンマルチノと馬場さんの本当の中は、ビジネスパートナーだ。馬場さんの引退試合、と言ってもなくなった後に東京でリングの上で開催されたものだ。このときは、元子夫人が持ち込んだ馬場さんのリングシューズが観客の涙を誘った。その引退試合にリングに登場した外国人元レスラーは三人。
 まず、ディック・ベイヤー(The Intelligent Sensational Destroyer)=足四の字固め。彼は弔辞で、日本語で、「シャチョー。オツカレサンデシタ!」と叫んだ。目に涙を浮かべていた。
 次に、ジンキニスキー。(ルーテーズからNWA選手権を奪取した。荒法師。)彼は、日本語で「ババサン。アリガトー。」と言った後、泣きながら、英語で長い長い弔辞を贈った。
 最後に、リングに上がったブルーノ・サンマルチノは、まるで、ダブルのスーツの似合う、メタルフレームの眼鏡をかけたイタリア系移民の末裔アメリカ人然とした普通の体型のビジネスマンだった。彼は英語で短く儀礼的にあいさつした。前の二人が、日本語でババサンに届けとばかり、涙ながらの弔辞とは打って変わってビジネスライクだった。あえて言う。ブルーノサンマルチノは馬場さんにとってただのビジネスパートナーだった。