近衛歩兵第一連隊。それが<彼>が、終戦の時に属していた部隊である。

<彼>は四国の田舎地主の長男として生まれ、旧制中学卒業後、すぐ志願して職業軍人となった。のちに選ばれて皇宮守備に就いた。終戦を少佐で迎えた彼は、公職追放で戦後何年かは、米や蜜柑を作って生計を立てるしかなかった。

近衛連隊のうち、第一と第二のみが皇居の守備に就く。戦前の軍人であれば、それを最高の光栄としたにちがいない。

しかし、それは「身命を賭して皇国の為に働く」と言う軍人の本懐とは、かけ離れていた。どんなに名誉な部隊であろうと、敵連合軍が、皇居に攻めて来ない限り、彼らが実戦に参加する事は有り得ない。

「大君の為に死ぬ」と言う名誉に縁の無かった彼らにとって突然、「名誉を得る千載一遇のチャンス」は、東京空襲の御所火災の時である。昭和20年5月の東京大空襲だ。

この時、皇居内のいくつかの建物が炎上した。焼け死ねば、士官も兵隊も「名誉の戦死」となる。しかし、この時は、負傷者はいたものの、誰も死んだ者は、いなかった。

その後に訪れた「名誉の戦死」の機会は、映画「日本のいちばん長い日」で描かれたとおり、昭和20年8月14日から15日にかけての、玉音放送録音盤をめぐる攻防戦、いわゆる「宮城事件」である。

この時、皇宮の守備は、近衛歩兵第二連隊の当番であった。彼らは自身で知らないうちに反乱軍となっていた。近衛歩兵第二連隊は皇居の中で賊軍になり孤立した。

兵士達は一部青年将校から下された偽の師団長命令により、彼らは天皇陛下を拘禁し、国体護持、ポツダム宣言拒否、徹底抗戦のための反乱軍にさせられてしまった。

この反乱将校たちは、既に上司の師団長を殺害して、ついでは、天皇陛下拘束を目論んでいた。

しかし、前日、御前会議において天皇陛下の御聖断は下っていた。軍人の本懐は死を持って大君を守る、つまり、国体の護持である。

阿南陸軍大臣は八月十五日の未明割腹自殺をした。遺書は「天皇陛下万歳。一死を以って大罪を謝し奉ると、神州不滅を確信す。」であった。

軍本部も、青年将校には投降を、兵士には武装解除を呼びかけた。阿南大臣の死を無駄にするなと。近衛歩兵第一連隊と近衛歩兵第二連隊の同士討ちは回避され、反乱の首謀者の将校たちは自決した。

近衛歩兵第一連隊少佐だった<彼>には「有事には、賊軍を打て。」の密命が出ていた。しかし、幸いな事に、その時は来なかった。友軍に銃を向ける悲劇は避けられた。

空襲でも、「日本のいちばん長い日」にも、死ぬことの出来なかった<彼>は、「不名誉」なことに五体満足のまま、無事、除隊した。故郷に帰り、公職追放となった。戦後は、しばらく農業に従事した。

東京でいた時に交際していた女性から何度か、手紙が来た。<彼>の母は、その手紙をすべて隠した。手紙には、添い遂げたいと言う女性の気持ちが切なく綴られていた。

母は、自分の息子の不名誉、不遇が理解できない無知蒙昧な老母であった。落ちぶれたわが子の惨めな姿、敗戦し混乱迷走する日本、東京にいて息子を誘惑する悪女(と老母は勝手に誤解した)等など、錯乱した母は、長男に届いた何通かの手紙を自分の長女に渡し、隠すことを命じた。

<彼>は、手紙の存在も、交際した女性の思いも知らず、戦後、妻を得た。しかし、生涯、子供を得られなかった。彼も、その父も、母も、手紙を預かった彼の妹も、すでに鬼籍に入っている。

<彼>の家には、現在、92歳となった妻が1人で住んでいる。彼が愛した東京の女性は、彼の家では決して語られることのなかった存在である。

夫婦仲は良かったが、子供に恵まれず、<彼>の妻はいつもさびしげな顔をしていた。<彼>も妻への負い目、申し訳なさからか、時々、哀しそうな表情を見せた。

筆者は、長い間、それは<彼>が戦争で死ねなかった不名誉のせいだとばかり思っていた。

しかし、それは違っていた。

<彼>の悲しみは、愛する人と添い遂げられなかった苦しみと、妻をあざむいていることに対する後悔の思いによるものであったに違いない。けれどもそれは<彼>の内面のことであり、直接<彼>の悲しみを知る人は、今はもう、誰もいない。

歴史の表面に現れる<彼>は可も不可もない、「名誉の戦死」も「反乱軍の将校」にも成り得なかった「凡庸な職業軍人」として、ただ、ただ、国立国会図書館近衛師団資料にその名を残すのみである。