横綱輪島リングデビューと引退

1986年( 昭和61年 )の2月26日の18時頃、単車を転がしていたサラリーマンのボクは交差点の真ん中で日産サニーと正面衝突して全身骨折、左膝靭帯断裂、左膝半月板損壊で国立病院に救急搬送された。

入院生活は長期間に及び、その間にタレントの岡田ユキ子が死んだ。全国信用保証協会の専属CMタレントだった彼女の理不尽な自殺にボクはショックを受けた。
また、その頃全日本プロレスに入団した元大相撲横綱輪島大士のリングデビュー戦テレビ放送も国立病院のベッドの上で見た。

輪島のデビュー戦の相手は、たしか、新日本プロレスから移籍したばかりのタイガー・ジェット・シンだった。タイガー・ジェット・シンというと、コアなプロレスファンでなくても、その奇妙な日本のプロレス界への初登場についてはご存知の方は多いと思う。昭和48年の『 11・5新宿伊勢丹前事件 』と言うと、「ああ、あれか。」と、すぐに思い当たるのではないか。ボクは大学の後輩から事件を聞かされた。

カナダのカルガリーで貿易商であり篤志家として地元では有名な元アマレス五輪選手のタイガー・ジェット・シン新日本プロレスからの要請を受け、昭和48 年の晩秋の夕刻、東京の繁華街でアントニオ猪木を襲撃して傷を負わせた。もちろん、フェイクであり、「 遺恨発生!決着はリングで。」と言う新日本プロレスのアングル、つまり「やらせ」事件であった。

それから13年目にタイガー・ジェット・シンは永年の友好的な契約パートナーの新日本プロレスから競合先のライバル会社全日本プロレスに職場を変更した。『 新日本プロレスとの契約終了、全日本プロレスとの新規契約 』へと彼が決意した最大の理由はギャランティーの増額もさることながら、日本のプロレスリングで日本の元国民的英雄スモウレスリング・グランドチャンピオンと仕事ができると言う栄誉が一番であった。

ところが、試合結果は不完全燃焼の両者リングアウト、ドローであった。輪島にとっては大相撲時代には経験したことのない引き分け試合であった。自分の役回りが理解できず、試合後茫然と立ち尽くす輪島。「 こんなしょっぱい相手とやってられるか! 」とばかりリングを降りて行くタイガー・ジェット・シン

テレビマッチだったので、解説者席にいた馬場さんは、すかさず天龍源一郎選手を呼び、何事か耳打ちしてリング上の輪島に向かって走らせた。元横綱輪島の二年後輩で元二所ノ関部屋の力士だった天龍は当然のことながら輪島をリスペクトしている。天龍が輪島に何事か耳打ちするのをテレビカメラは、はっきりと捉えていた。

後年、全日本プロレスから離れた天龍は、昭和61年の輪島デビュー戦の真相についてこう語った。

( 馬場さんは輪島さんの商品価値を守ろうとした。シンにもファンにも、

『 輪島は、大相撲では元横綱でもプロレスでは幕下並みだ。』と思われるのを避けたかった。

それでこう言った。

『 天龍!輪島に伝えろ。ぼさっとせず、すぐにリングを降りてシンを追いかけろ。叩きのめして来い。 』 )


輪島は素直に馬場さんや天龍の指示に従ったが、プロレスは大相撲とは勝手が違うようでプロレス特有のフェイクやギミックに慣れることはなかった。
二年間、全日本プロレスで頑張ったが、チャンピオンになることはなく引退した。
四十歳だった。