剣道はしない

剣道はしない。

剣道は竹刀というダジャレではなくて、剣道はやらないという意味だ。

 

やらないので、宮本武蔵VS吉岡憲法の逸話を司馬遼太郎先生の文庫で読んだが今一つピンとこない。彼らの時代には剣道=剣術=兵法と戦場での戦闘=戦働きとは全くの別物であったらしい。

分かるような分からないような気がする。

 

ただ、司馬遼太郎先生は文藝春秋誌での義弟の言によると資料を神田の書店からトラック買いで取り寄せていたというから、より史実に近い所から小説の筋を構築していたと思われる。だから、京流剣術道場の看板を下ろした後の吉岡憲法四代目が染物屋の隠居になった後、津山藩士二名に襲われた時、扇子一本であしらった話などと言うのは、あながち作り話ではなかったというような気がする。そしてこれは吉岡憲法四代目が京都所司代の要請の御前試合で宮本武蔵と引き分けた後のことである。

 

つまり、戦前に吉川英治先生が参考にした武蔵の養子の伊織の手による小倉碑文とは一致しないことになる。同碑文には宮本武蔵が京流吉岡憲法一門を根絶やしにしたとしている。

そうしてみると、次には吉川英治先生が下関の漁業従事者の家の伝承をもとに描いた宮本武蔵と津田小次郎の決闘はどうだろうかと疑問に思ってしまう。

 

吉川英治先生が小説宮本武蔵を世に出したころは日本が太平洋戦争に向かっていく世相の中であったから、そんなストーリーになってしまったのだろうか。そうだとすれば吉岡家の子孫の方々には不名誉な話である。一方の津田小次郎についてはその実在についてすら不詳である。なお、講談や吉川英治先生はこの島で武蔵に負けた剣士のことを佐々木小次郎と表現している。

 

けど、正直に言うと、剣道はしない、ので、あまり興味はない。