僕は長い間力道山のプロレス入りのきっかけはハロルド坂田との喧嘩と言うふうに思っていた。実際はボビーブランズの勧誘指導を受けたものらしい。また、そのあとデビュー戦の相手もボビーブランズが務めている。
ハロルド坂田は力道山より一二年前にプロレスデビューしたばかりであったと言う。
なんで誤って覚えたのだろうか?
多分梶原一騎さんの説が強く強く記憶の中にINPUTされてたんだと思う
水木しげるさんは、つげ義春のタッチにほれ込んで、雑誌ガロ誌上に「つげ義春さん。連絡をください。水木しげる。」と言う広告を載せた。それを見たつげさんが調布市の水木さん宅を訪れアシスタントになったという。
その時、つげさんはもうすでに「つげ義春」というブランドとして確立されたプロの漫画家であった。しかし、水木さんに乞われて水木さんのアシスタントを引き受けた。引き受けたつげさんの本心は誰にも分らない。
一部漫画ファンがよく水木さんに尋ねたという。
「つげさんは自分がプロの漫画家なのに今更、水木さんのアシスタントなんかして、プロとして自信喪失でもしたのでしょうか?」
水木さんの答えは明快である。
「ボクはつげさんのタッチがボクの漫画にピッタリだと思った。何とかボクの作品作りを助けてもらいたいと思ってオファーした。もちろん、彼は自分のタッチが確立されたプロの漫画家だ。だけと゛、プロのアシスタントとして仕事をして生活の糧を得たいと思ってボクのところに来た。ただ、それだけのことであって、別に、つげさんが堕落したわけでも、プロとして自信喪失したわけでもない。」
つげさんはつげさんでアシスタントをしながらこの時期、「ねじ式」、「ゲンセンカン主人」、「紅い花」を発表している。
だから、生活の糧を得るために水木さんのアシスタントをしながら、自分の描きたいものを描いていた。堕落や自信喪失ではなくてまさに充実した漫画家活動をしていたと言えよう。三作品はつげさんの代表作と言う人もいる。
ボクの友人の漫画家兼編集者は、個人的にと前置きして「ゲンセンカン主人」が一番好きだと言っているほどだ。
つげさんは水木さんを尊敬していたらしく、ゲゲゲの女房、水木しげる夫人の著作によると水木さんの車を池上遼一さんの運転で水木さんつげさんが同乗して神田の古本屋街によくでかけていったそうだ。
水木夫人の話ではつげさんはガロの広告を見てふらりと水木邸に現れ、住むところもないというので、あわててアパートを契約したそうだ。ふらりと現れ、「ヤスミタイ」という謎の手紙を残して失踪事件を起こし、また、ふらりと姿を現してアシスタントの仕事をしたりしたそうだ。
つげさん自身は、一連の行動に関して「自分の中の精神的な不安定」と「旅行癖( 異常な放浪癖 )」を挙げている。
休筆宣言をした後、深大寺かどこかで偶然バッタリ、水木さんと再会し、
( 仕事と生活が思うようにいかず)「不安で不満ですよ。」
と水木さんが言うのを聞いて、
「あれほどの成功者にして、心の不安はぬぐい切れないのだ。」
と思い、ますます尊敬したと語っている。
池上遼一さんに関しては水木夫人の著書によると、関西で看板を描いていた池上さんがガロに発表した作品の画力に感心した水木さんが編集部に頼み込んで関西からアシスタントをしてもらうために呼び寄せたという。
上京したその日から、水木さんの原稿の背景を担当し、驚くほどのスピードで完成させ、水木夫人が用意した夜食の握り飯を片膝立てて、これまた驚くべき程のスピードで平らげ、仕事に戻り、また、すごいスピードで仕事を続けたという。
水木夫人は、池上さんの何をするにも驚くべきスピードでやってのける様に驚いているが、同時にとてもきれいな絵を描いていたと述懐している。
不思議な事に池上さんのヒット作品のほとんどが原作付き漫画(劇画)であることだ。ボクが知っているだけでも、「スパイダーマン」、「ひとりぼっちのリン」、「I餓男」、「男組」、「信長」、「サンクチュアリ」、、、などすべてだ。
ボクは、原作付き漫画の作画家が悪いとかは全然思わない。それどころか、他人の作ったストーリーを絵に表わせる人は、ストーリーを創作する人と同じくらいの力を尽くして作画化していると思う。
今一つ不思議な事は、池上さんはつげ義春さんの大ファンで水木さんのアシスタントになった時、そこにつげさんがいて驚いたが、水木さんの言によると、
「私よりも、つげさんのことを先生々と呼んで、よっぽど尊敬していた。」
と言う話である。本当に興味深い不思議な関係だ。
ボクの同級生で地方銀行の役員をしている人がいる。彼がその昔、知人の披露宴に呼ばれた時のこと、来賓に第一勧業銀行(現・みずほ銀行)の支店長がいた。その支店長は祝いに一曲歌った。突然、披露宴会場は静まりかえった。歌い終えると会場は大騒ぎになった。拍手の嵐はいつまでも止まらなかった。披露宴のお客は、なんと小椋佳の生歌が聴けたのだ。
小椋佳さんの『生前葬コンサート』がNHKテレビで放送された。現在70歳。澄み切った伸びやかな歌声は健在だった。小椋佳さんは東京都出身、東京大学卒業後、第一勧業銀行に入社。証券部次長や営業店長を勤めた。支店長時代に浜松市のゴルフ場のコースレコードを出したことがあるそうだ。
その同級生は、小椋佳さんの印象について次のように語っていた。
「物静かな人で紳士。とても歌手と銀行員の二足のわらじを履いてるようには見えない。」
テレビで歌っている小椋佳さんを見てふとそんな話を思い出した。
小椋佳さんが、なぜ第一勧銀の浜松支店長と言う重責を勤めながら歌手活動が出来たのか? 銀行員をしていた筆者の推測だが、彼はいつも自然体でポジティブシンキングだったのではないか、と考えている。第一勧銀と言うメガバンクの浜松支店長としての神田紘爾(本名・かんだこうじ)も、歌手としての小椋佳も、彼にとっては、特別な事ではなかったのではないか。そして、忙しすぎる銀行員として、時間の使い方の非常にうまい人だったのではないか。今から46年前、小椋佳さんが第一勧銀の証券部に勤務していた時、NHKホールで一回きりと言う条件でワンマンコンサートを引き受けている。そのコンサートの様子はNHKのカメラが一部始終を撮影している。
「今日はお先に失礼します。」
と、上司に挨拶する小椋佳さん。それから、会場に向かう。会場客席には、最前列の美空ひばりさんを初め、多くの歌手、芸能人が詰めかけている。超一流歌手が彼に注目しているけれどそれも彼にとって特に緊張するような事ではなかったようだ。
小椋佳さんと数々の曲を作った堀内孝雄さんも、後にインタビューに応え、こう語った。
「曲作りの打合せのため、小椋さんに連絡をしたら、お昼の12時に第一勧銀本店近くの喫茶店で会いましょうと言われた。現れた小椋さんは、『僕は失礼してお昼ご飯食べます』と言ってカレーライスとコーヒーを注文した。そして食事をして、曲の打合せをして、一時前に銀行に戻って行った。さらりとやってのけたけど、とても時間管理の上手い人だと感心した。」
また、小椋佳さんの歌はサラリーマンに元気を与えると言われている。その理由は1971年(昭和46年・小椋27歳)に数多くの名曲が集中的に発表されている事にあると思う。小椋佳さんは生涯を通じてまんべんなく平均的に創作している。しかし、人生の前半の名曲は17歳から22歳まで(つまり学生時代)に作詞作曲している。
サラリーマンのうち団塊の世代の人達が「元気を貰った」と言うのは、彼らが小椋さんの歌を聴いて若い頃の自分を思い出すからだと思う。
『さらば青春』と歌いながら、過ぎ去った青春時代がよみがえってくるような気がしているに違いない。
デビュー作について教えてください。
>それは今、単行本とかの形になっているのですか?
なっていません。
>ギャランティーはどうでしたか?一ページいくらという計算でしたか?
3千円(ゾロ3ってやつで¥3333 源泉徴収分があるので)×4ページ。
>アシスタントをされたことは?
ありません。
>やはり、アシから作家デビューするものなの?
仕事の進め方や編集との付き合い方とかを学べるので、アシはやった方が良いと思います。
>投稿からデビューする人との比率は半々くらい?
投稿でデビュー後に、編集の紹介でアシ(忙しい時だけとか)をする人は少なくない。
良い先生(優しくて待遇が良い。例、上村一夫先生)の元でアシをすると、居心地が良過ぎてデビューが遅れたり、デビューしないでアシのままで過ごすということにも…。
>なんか大漫画家KM先生は既に結婚されていてもっと収入を増やしたいから
>手っ取り早く稼げる方法として漫画家デビューしたように思えてなりません。
ははは、さすが御大。見破られていますね。
>編集者時代には「人斬りF」先生にかわいがられたと聞きますが
>本物の元〇クザさんだから、やっぱり安藤昇先生のような雰囲気の人でしたか?
好々爺という感じでした。本当に気配りの出来る良い人というイメージ。小柄だし。映画では渡哲也が演ったので、その雰囲気でイメージしがちですが…。
最期をああいう形で迎えられたのは本当に残念。作家になってからはヤクザ辞めてたと思いますし、だから色々あったのかも。
武闘派の安藤組長は別格です。組長だし貫禄が違います。
***筆者注
この他にも少女漫画家が上京してデビューして世間も大人の社会も知らないまま、出版社の言いなりで意志に反して描かされ潰されたり、かわいい子は編集者と出来て捨てられたり、まるで女工哀史だと嘆いていました。
親友は漫画家となった後、編集者として出版社の正社員となった時期があってその時にマイホームも建て、大病したけど会社の健保組合に助けられたりしてラッキーだったと話していました。後にまた漫画家に戻るわけですが「夢の印税生活」とボクが言うと、
そんな甘い仕事ではないといつも否定していました。
闇金なんか借りる人がそれまでボクの周りにはいなかった。闇金はボクの勤務先にも親せき中にも電話で督促してきた。
当時ボクは地方銀行の支店勤務だった。ねちねちと脅しをかけてくる闇金の督促にボクは正論で応じた。
俺がいつ妹の連帯保証人になると契約としたか
俺はお前からのこの電話で妹がいかがわしいところから借金していると初めて知った。
もし俺が連帯保証人でなく単なる保証人だったとしても借主の妹に直接催告すべきだろう
すると闇金のチンピラは
なにせうちらは非合法な金貸しなもんで
おにいさんもこういうとこから再三金返せの電話があったら立場が悪くなるでしょう
少し妹さんの借金の肩代わりをされたらどうですか
と言った。
馬鹿野郎
非合法なら金なんか返すか。どうせ暴利をとってんだろうが。
100回だろうが200回だろうがかけてきても払えるか
妹でもその子供でもさらうなり〇すなりやってみろ
そんな脅しに乗るか
ボクが営業中に支店内で大声で怒鳴るもんだから
勤務先にも知れてボクはそのせいで事務センターと言うところに飛ばされてしまうのだが。(だが、残業もノルマも出世の望みもストレスもなくなりずいぶん健康的になった。結果オーライ)
途中で〇亀警察署に相談しても何もしてくれなかった。
皆さんにお知らせしますが警察と言うところは大変忙しい役所なので闇金くらいでは動かない。闇金事件が元で人が〇されたりするようなことがない限り助けてはくれません。
他にもこの〇亀警察署と言うところに関しては不祥事や司法巡査自身の不正、犯罪、横暴でニュースになることが多い署です。
ボクは一計を案じた。闇金からの督促日(20社くらいあった)は集中していたので、ボクはその日の早朝親せき中に召集を掛けて妹が寝ている間にいぇに上がり込み、親戚に周りを取り囲ませて逃げられないようにして、座敷に電話を引いて妹に闇金の督促があり
次第こう言えと、紙を見せた。
妹は馬鹿だから漢字が読めない。よってひらがなで書いてある。
(元金だけでもおかえししますので、そちらのじゅうしょばんちをおしえてください。げんきんかきとめでおくります。)
その日闇金からは次々と電話があり妹は教えられた通り闇金に伝え半分は住所を聞き取った。
住所なんかうかつに言うと警察が踏み込む恐れがあるので言わないはずだが闇金の手先のチンピラにはバカもいて半数は答えた。
実は20社あっても実は一つの組織で債務者を延滞督促で追い込んで次の業者を紹介するからと言うのが奴らの常套手段なのだが知能の足りない妹は口車に乗って借金を繰り返した。最初は電柱の張り紙を見て一万円借りた妹の借金は最終的に500万を超えていた。
繰り返し電話を受け住所の聞き取りをさせていた時、母親が「○○ちゃん。あんた、だんだん電話が上手になって来たわ。」と妹に言った。親戚一同顔を見合わせうんざりした顔をした。
場の空気を読まない馬鹿母子の様子に皆怒っていた。
ボクはこの住所地に内容証明郵便を発送した。以下の内容を記した。
高金利ですでに元金の返済は終了している。
年利換算で4000%を超えた違法な貸金である。
返還請求はしない代わりに二度と関わるな。
以上が守れない時は法的措置で対抗する。
それで督促は来なくなった。
後に東京地方検察庁がこの一派を逮捕した。
漫画でしか見かけなかったスイス銀行という文字もこの時初めて現実に見た。
スイス銀行にプールされていた闇金による被害金を押収したから被害者全員の申告が終了次第、配当すると言う趣旨の通知書が妹の所に来た。
妹は馬鹿なので内容もきちんと読まず被害金が返ってくると喜んだが、ボクの所にその通知文が来たのは締め切りの一週間前だった。
ボクは妹に変わって母が偏差手に空いたとする400万円余りのエビデンスを集め(通帳の出金記録、送金の領収書など)東京地検に郵送した。
還付はわずか40万円ばかりだった。妹の口座に東京地検から振り込まれたが、妹はその金を母親に返さず、二番目の亭主と一緒になってパチンコ、遊興費に費消した。
きっと死んだら地獄に行くと思う。しかし妹をそういう人間にしたのは母親の甘やかしが原因である。二人そろって天罰を受けるに違いない。
新弟子になりたての頃の猪木と馬場が雑誌で対談している。その出典について述べたいが失念した。
記事については二人の対話を記者が雑誌記事に改めたものであるから、若い二人が意外に理路整然と冷静に自分たちの職業について語っているように読み取れるのは、ひょっとすると記者の編集や記者のプロレス観が入ってしまったのかも知れない。
二人はその時開催中のワールドリーグ戦と外人レスラーについても言及している。
まるで評論家のように述べる猪木の発言にはハッとさせられる。
猪木は熱心な大人のプロレスファンのように語る。時に、力道山のことを「力さん」と意外に気さくに呼んでいたりする。
後で殴られたりしなかっただろうか?
余談ながら、この時点で猪木はまだ給料をもらっていなかったように思われる。力道山や豊登からの小遣いを給料替わりにしていたらしい。馬場は当初から入門時に読売球団在籍時の給料を約束されたが、実際は月給30000円と著書で述べている。
二人は金銭的な面でさえスタート時から差別されていたようだ。
そこへもってきて「力さん」発言力道山の耳に入ったら殴られ小遣いも止められ兵糧攻めにならなかったろうかと老婆心ながら心配だ。
馬場は先輩の仕事ぶりを冷静に見つめ自分がワールドリーグ戦に参加したとしたらどう働くべきかと言うふうに述べている。対して猪木は記者か評論家のようにレスラーより一段と高い所に立ち見下ろしているような発言をし、力道山に対しては「力さん」と意外な呼び方をしている。まるで同僚に話すようだ。
豊登は「力さん」
大木金太郎は終生「先生」
ユセフ・トルコは「社長」「先生」「力さん」をTPOで使い分けし、
グレート東郷は「力」
それぞれ呼んでいたようだ。
あの猪木の「力さん」と言う呼び方は気になって仕方ない。
記者の捏造だったら、むしろ納得だし力道山に対しても申し開きが可能だけど。