ブルドックと言う名の旧日本軍軍用車両

仙台の航空隊で終戦を迎えた私の父は軍隊で自動車免許を取得し終戦後、免許の書き換えで一種二種の免許を貰ったと聞いている。

父の軍隊時代の愛車は「日産のブルドッグ」と言っていたが、調べてみたがそんな軍用車は存在しない。

そもそもブルドッグとはイギリス原産の、ブル(牛)と闘うために品種改良された中型犬で日本軍がそんな敵製語は使わないだろうと言ったら

 

「普通に『ブルドッグ』と呼んでいた。上官からも『英語を使うな!』となぐられたりはしなかった。」

 

と言っていた。

探してもわからないので日本の軍用車で形がブルドッグ似ている車両を調べた。すると

九五式小型乗用車と言うのが見つかった。しかし、これにはれっきとした日本名のくろがね四起と言う愛称がある。これを父の言うブルドッグだと断定することはできないが当たらずと言えども遠からずと思っている。

 

 

ファインモールド 帝国陸軍 九五式小型乗用車 くろがね四起 KUROGANE 135

【以下、Wikipediaからのくろがね四起についての抜粋

くろがね四起(正式名称:九五式小型乗用車)は
東急くろがね工業(現在の日産工機)が開発し
昭和11年~19年まで製造された純国産の四輪駆動車(4WD)でありました。
エンジンは1.2リッターから1.4リッターで33馬力(3300回転時)でした。
(80年後の現代における最新の軽自動車が0.6リッターで64馬力です)

夢は紅白親孝行

よく考えられたフレーズで純烈のリーダー酒井一圭さんが考えたものだが、その純烈も五回か?紅白に連続出場している。

最初の二、三回は今年は大丈夫だろうかとドキドキしたが、今や紅白にすっかり定着して常連組なった。

週刊朝日 2022年 12/30 号【表紙:純烈】 [雑誌]

君がそばにいるから/僕に残された時間はどのくらいあるだろう【Bタイプ】

おかしなものでこうなるとあまり見たくなくなってしまった。

 

柚子風呂シーズン近づく

【季節限定 栽培期間中農薬不使用柚子 】 高知県 農薬不使用 土佐山 ゆず | 柚子 柚 ユズ yuzu 柚子玉 果実 実 果物 生 皮 器 玉 (1kg [6-8個])

田舎の親の家の敷地に柚子と酢橘の木がある。冬と夏のそれぞれのシーズンに収穫するために帰ることにしている。

柚子は柚子風呂と皮を細かく切って大根の酢漬けに使う。

とくに冬至の柚子風呂は最高に気持ちがいい。

温泉地の柚子風呂もいいけど、自分で収穫して自分ちで柚子風呂に入るのもいい。

幸せだなーとつくづく感じる。

柔道一直線の凄い影響

柔道一直線5 (マンガの金字塔)

講道館梶原一騎先生に感謝状を贈ったというニュースが話題になった。当時、少年キングで連載中の柔道漫画柔道一直線」がテレビで実写ドラマ化され柔道ブームが起きて全国で柔道の普及に貢献したと言うのが講道館の感謝状の理由であった。

 

私は中学生だったが新入生が15人も入部してきた。2年生からも5人の入部希望者があった。変わり種だが3年のバスケット部のキャプテンと野球部の3年で正捕手だった男も入部希望してきた。

バスケのキャプテンは県大会の優勝チームのポイントゲッターを務めた人で小柄だが運動神経抜群で女子に人気の学校のスターであった。

野球部の正捕手は中学県大会のホームラン記録を持っていて怪力の大男であった。

二人とも残り一年を切った中学生活の残りを柔道に打ち込みたいと言って来た。

 

担当教師は大喜びでこれで地区大会、県大会で優勝間違いなしと舞い上がっていたが私の聞くところによると地区の各中学で有望選手や体力に恵まれた新入生が続々と入部しているとのことであった。

 

そのくらいテレビと漫画の柔道一直線の影響力は多大であった。

 

バスケ部OBと野球部OBは入部一か月後、地区の他校複数チームとの定期戦に白帯のまま出場した。

バスケ部OBはバスケットで鍛えた身体能力の高さを発揮して軽量だが相手の技を寄せ付けず無差別個人戦で準優勝した。(決勝では経験不足の優勢負けで遂に相手に一度も投げられることなく大会を終えた。)

野球部の元正捕手は団体戦に出場したが決勝戦含めた五回戦すべての先鋒で五人抜きをした。25人に全て一本勝ちをした。

 

しかしこれはたまたま私のいた中学に天才的選手が二人入部したためであり、各中学とも柔道部は人気の運動部で大所帯だったようだ。全て漫画とテレビの柔道一直線のおかげである余談だが元バスケ部は高校大学と柔道を続け後に国体に出場した。

元野球部は高校では野球部に戻り甲子園出場を果たした。

柔道一直線 VOL.8<完> [DVD]

 

 

老いた詐欺師の末路・銀行の話

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世の中には人を騙して借金をし、そのまま踏み倒そうとする悪人がいる。担保物件の農地を競売した時のことだ。債務者Aは悪いやつだった。揃いも揃って還暦過ぎた元大企業出身の男達が定年後に集まっていかがわしいベンチャー企業を立ち上げた。

 

法人の登記簿謄本にはその企業の役員の氏名の記載があるが、全員が65歳を越えていた。メンバーのそれぞれは、日本人なら誰でも知っているような有名企業のOBだった。

 

本社所在地が東京都千代田区で事業内容は「不動産管理業」「ビルメンテナンス業」及び「新技術による鉄筋構造物の防錆処理業」。代表者の住所は神奈川県横浜市だった。

後に、彼らが詐欺師集団と判明した時には登記簿の記載の写しが何とも白々しく見えた。

当時、ベンチャー企業を保護育成するための法案が国会を通過していた為、ベンチャー企業支援目的の様々なシステムが既に構築されていた。中でも、「新規にベンチャー企業を立ち上げようとする起業家に対する国や県や各地方公共団体の『制度融資』」は充実していた。そして、詐欺師集団は、この資金に目をつけた。あらゆる手を尽くしてそれらの『制度融資』を借りまくる。

 

その時、借り入れ審査条件は甘く、返済条件は緩やかで、借り入れ利率はずいぶん低かった。詐欺師集団は集めた金を投資に回し、荒稼ぎをした。借りた制度融資の返済は後回しにして投資に回す。資金が不足すると、Aは実家の農地を銀行の担保に入れて借り入れをした。

しかし、悪事は栄えた試し無しの諺通り、やがて、資金繰りは行き詰まり、破綻する。こうなった時には会社の財産も実体のないペーパーカンパニーなので脆い。取り巻きも役員も逃げ、代表者のAは孤立無援となった。

 

融資先が詐欺師集団と知った地方銀行はあわてて競売申し立てを行う。Aは、地方銀行のロビーに現れ、己れの悪事を棚にあげ、抜け抜けと「伝来の田んぼを差し押さえ競売なんかされたら、先祖に対して申し訳ない。」と泣き落とし。

しかし、もう手遅れだ。

 

その後、農地は入札者は現れず、数回、最低競売価格を見直すもついに落札はなかった。その後、親類が地方銀行に完済し、農地を引き取った時には、悪事の報いか、Aは病死していた。

有名企業を定年退職し、故郷で農業をして安寧に暮らすと言う選択肢は彼には無かったのかも知れない。

 

日本の繁栄時代に企業戦士として大活躍したであろうAにすれば、生涯、人を動かし、金を動かし、世の中を動かしていたかったかも知れないが、残ったものは愚かな犯罪の実行者としての汚名だけであった。

 

1963/11/22ケネディの死・ヒーローが消えた日

映画俳優・赤木圭一郎が生きていたら、今年で75歳になる。ジェームス・ディーンと八代目・市川雷蔵は同い年だから、生きていれば、共に84歳だ。

 

プロレスラー・力道山は満91歳のはずだし、ジョン・F・ケネディは生誕99年を迎える。いずれも筆者の幼い頃のヒーローたちである。もしも、彼らが生きていたら・・・と今でも残念でならない。

ジョン・F・ケネディ・ストーリー The JFK Story (ラダーシリーズ Level 4)

ジェームス・ディーンは、1955年9月30日に24歳で交通事故で亡くなっている。筆者は一歳半だから、知る由もない。ジェームス・ディーンの存在を知ったのは、赤木圭一郎が亡くなってからあとのことだ。

和製ジェームス・ディーンと言われた赤木圭一郎は、1961年2月14日調布撮影所で、ゴーカートに乗っていて事故を起こし、一週間後に亡くなっている。この時、筆者は7歳、小学校一年生だった。

7歳だったとはいえ、この事はよく覚えている。日活アクション映画の大ファンだった母親と初めて映画館で見たのが、小林旭の「銀座旋風児」だった。それは1959年のことで、筆者はまだ5歳。未就学児童で、「銀座旋風児」が言えず「銀座扇風機」と言って母を笑わせていたそうだ。

日活アクション映画では小林旭赤木圭一郎が大好きだった。石原裕次郎は大人のファンが多かったのと、裕次郎の放つカリスマ性と深いメッセージが複雑な思いがして苦手だった。

それに対して、小林旭の、なーんにも考えてないようなパープリンな底抜けの明るさと腕っぷしの強さ(という演技)、また赤木の暗い憂いを含んだ瞳と独特な早口の台詞回し、殺死屋のくせに決して人を殺さない拳銃の名手、劇中、突然流れ出す調子っぱずれだが一度聞いたら絶対忘れられない歌声、そのどれもが大好きだった。

赤木の死亡を知った時、筆者は「旭は大丈夫なの?」と母親に尋ねた。赤木は誰かに殺されたのではないかと妄想し、次いで小林旭の安否を尋ねたのだ。宍戸錠は竜(大好きだった「拳銃無頼帖」での赤木の役名)を殺す筈はない。

藤村有広が犯人に違いない。変な日本語を喋る謎の人を怪しいと思った。近所のお菓子屋の親爺が、子供心に藤村有広そっくりだと思った。

赤木圭一郎が死んでから、母親は映画を見なくなった。筆者もテレビばかり見るようになった。

その頃テレビでは、しばしば、アメリカの若き大統領ジョン・F・ケネディのことを報じていた。ケネディも子供達の間では、ヒーローだった。強くて大きく正しいアメリカの象徴だったのだ。

その大好きなケネディが死んだ! 銃で撃たれて殺された。すぐ犯人と言う男が捕まった。が、この犯人も白昼、公衆の面前で別の男に射殺された。それもテレビで知った。

アメリカは怖くて乱暴でめちゃくちゃな国になってしまった。それが、1963年11月22日のことでケネディは46歳。筆者は小学校3年生9歳だった。

驚いたことに翌月もヒーローが死んだ。同年12月15日、東京赤坂のナイトクラブで力道山が酔って喧嘩し、ナイフで腹を刺されて入院した。

テレビドラマや映画にもたびたび出演する正義のヒーローだった力道山だから、大したこと無いだろうと思っていたら、一週間くらいして、亡くなったとテレビが突然報じた。まだ、39歳だった。この時、筆者は泣きながら母親に、

「母ちゃん! なんで力道山、死んだんや?」

と、しつこく尋ねていた。正義のヒーローが死ぬと言う不条理に我慢が出来なかった。

それからは、子供心に熱中するヒーローを持つことを意識的に避けた。思い入れが深いほど、ヒーローが消えた時の悲しみは深いということを知った。

昭和のヒーローたちは夭逝の人が多かった。今、テレビの映像で昭和のヒーローたちの映像を見るたび、あの時代の悲しみが蘇って来る。ヒーローたちは生き急ぎ、時代を形づくり、昭和を駆け抜けて行った。