宮本武蔵の真実




先年、「<板垣恵介の漫画「刃牙道」が描く宮本武蔵の真実>佐々木小次郎は剣豪武蔵のライバルだったのか?」という記事を書いた。論点は三つ。

1. 日本人は、吉川英治の小説以来、宮本武蔵を誤解している。
2. 板垣恵介の漫画「刃牙道」は武蔵に対する誤解を解く。
3. 佐々木小次郎は、剣豪武蔵の最大のライバルとは言えない。

分かり難いとご指摘があったため、以上に対して補足する。

前提として吉川英治の武蔵は「創作」としては素晴らしい。それは認めている。その上で、以下に説明したい。

(1)昭和十年、吉川英治朝日新聞に小説「宮本武蔵」を発表したことによって、読者が小説の内容を史実と誤解した。

この根拠を「随筆・宮本武蔵」(彼の略史伝)吉川英治著より引用する。

 「私(吉川英治)は、前にも、幾度か云っている。史実として、正確に信じてよい範囲の『宮本武蔵なる人の正伝』といったら、それはごく微量な文字しか遺っていないということを--である。それは、むかしの漢文体にでもしたら、僅々百行にも足りないもので尽きるであろう。」

(2)連載中の板垣恵介の漫画「刃牙道」は、小説「宮本武蔵」を参考としていない。

板垣恵介は漫画「刃牙道」の連載前に熊本を取材に訪問しているが、小説「宮本武蔵」も「二天記」も参考にしてはいない。

武蔵自身の著作であるとされる「五輪書」からの引用は認められる。

(3)「佐々木小次郎」について存在したという確証が掴めない。伝承は不詳である。

佐々木小次郎については詳細は分かっていない。現存する書物に残されている記載の多くは「岸流」、「岩流」、「巌流」、「佐々木某」、「津田小次郎」とされる人物が宮本武蔵と舟島(船島)で立ち会った。年齢不詳の者となっている。

予断だが、吉川自身もずいぶん一人歩きをする小説「宮本武蔵」に迷惑を被ったらしい。小説には宮本武蔵が武蔵(たけぞう)時代の親友として「本位田又八」という架空の人物が登場する。臆病で卑怯未練なオッチョコチョイに描かれている。

当時、東京帝国大学教授の本位田祥男(ほんいでんよしお)博士は朝日新聞に「宮本武蔵」が始まるや東大生から「又八」、「又八」と揶揄されて困ったそうな。ついに怒り心頭、新聞に「『又八』などと言う者は私の先祖にはいない」として抗議文を発表した。文豪はひたすら帝大教授に謝したという。

ついでながら、明治の文豪森鴎外の「阿部一族」には六十一歳となった武蔵が登場する。「阿部一族」より引用する。

「畑十太夫が、最初討手を仰せ付けられた時に、お次へ出るところを剣術者新免武蔵が見て、『冥加至極の事じゃ、随分お手柄をなされい。』と云って背中をぽんと打った。十太夫は色を失って、手が震えて締まらなかった。」

反乱軍阿部一族鎮圧の討っ手として武蔵に励まされた十太夫は敵前逃亡した。

武蔵のとんだ見込み違いである。これはおそらく史実に基づいている。なんとなれば、寛永十四年(1637)武蔵五十六歳から正保二年(1645)武蔵六十四歳で死去するまでの武蔵の所在と言動についてはおびただしい数の武蔵以外の人の手による書状や記録が残っている。

現在、確かな史実と言われるものの中から少し開示する。細川忠利は武蔵を熊本に招いて客人として寓している。武蔵は仕官したわけではないので軍役、役職などは全て免除された。

寛永十七年十二月より毎年、三百石の米が細川藩から武蔵に贈与されている。藩主から家老、家老から配下の者への申し状には、武蔵への三百石の届け方が事細かに記載されており、藩主がいかに武蔵に対しリスペクトし、礼を尽くしたかが見て取れる。

 「一、(配達の者は)毎年恒例だから届けに来たと言う態度を取ってはいけない。これは棒給や扶持米ではない。一、石高はきっちり、三百石とせず毎年少しずつ変えて渡すのが礼儀だ。一、役人の申し状は決して相手の方(武蔵の事)に見せてはいけない。申し状は言わば家内文書であり御客様(武蔵の事)には藩主からの気持ちばかりの贈り物と言う振る舞いをすること。」

以上の奉書は現存する。

熊本県立美術館には武蔵自筆の「独行道」(どっこうどう)二十一ヶ条が残っている。吉川英治の小説においてたびたび引用されているこの言葉は実は、宮本武蔵本人のオリジナルである。

 「我事において後悔せず。」