少女の瞳〈中原淳一と竹久夢二について、やなせたかしが語っている〉

アンパンマンやなせたかしも愛したマルチアーティスト・中原淳一が訴えるもの

 
 
中原淳一(1913〜1983)は1913年(大正2年)香川県白鳥町生まれの画家、人形師、デザイナー、メイキャッパー、編集者、出版事業家、脚本家。今で言えば「マルチアーティスト」と言って良いだろう。
花の生涯に例えられるように、中原淳一の一生は波乱に満ちている。多芸多才の芸術家の人生もまた戦争に蹂躙されてしまう。しかし、自由と復興への意思は強く、戦後、日本中の少女達に夢と希望を与え続けた。
昭和21年から「ソレイユ」、「ひまわり」を初め、数々の女性誌の刊行を続け、昭和24年にNHKラジオ出演、昭和29年には映画「緑はるかに」製作。当時14歳の浅丘ルリ子を主役に大抜擢した。
昭和33年、日本テレビでレギュラー番組「中原淳一のおしゃれおしゃべり」を持ち、昭和34年には日本教育テレビ(現・テレビ朝日)で「花の日記帳」と言う15分番組の脚本を書いている。この番組は現在のバラエティー番組の走りと言う人もいる。
サンリオが1999年4月に発行した中原淳一画集「夢の中の天使」に寄せた、漫画家・絵本作家やなせたかしの推薦文を引用する。
 
「戦争のあとの焼土に咲いたひまわりのように美しく、そして当時の日本の少女のほとんど全員の胸をときめかした熱狂的なアイドル画家中原淳一の名前を知る人が少なくなった。中原淳一に対する芸術的評価は竹久夢二よりも低く単に甘い絵として黙殺されることが多いが果たしてそうだろうか。抒情は今踏みにじられている。世紀末の暗雲は世界中に広がって美しいものはむしろ軽侮されている。決して回顧的な感傷だけでなく、もう一度、中原淳一の絵と、その仕事を再評価する必要があると思う。その絵のつぶらな眸は何かを訴えかけている。」
やなせたかしが言うように、戦後70年経過して日本人は今一度、あの時代に中原淳一が少女の眸を通じて訴え続けた平和への祈りを思い浮かべるべきだろう。