備前焼の事は素人なんだが藤原啓さんの作品が好きだ〈陛下から逃げて岡山に帰ってしまった人間国宝〉

岡山県の東部に位置する備前市備前焼の産地として名高い。当地が鎌倉・室町の時代から「焼き物の里」として栄えた理由は「田土(タツチ:水田の底から採掘した粘土)」と「赤松」に原因する。

きめの細かい備前の「田土」を良く練って陶工や備前焼作家たちは、日用品や観賞用の食器、花器、酒器、コーヒーカップ、大皿、などをつくりだす。「登り窯(のぼりがま)」で数週間をかけて火を通す。備前焼は「炎と土の芸術」と言われる所以だ。「釉薬(ゆうやく)」等の「うわぐすり」は一切使わない。

日本各地の他のどんな焼き物にも真似ることのできない備前焼の「よう変」「胡麻」「さんぎり」「ひだすき」と言った焼きの手法は、赤松の灰と炎による偶然の産物と相まって二度と同じ焼きはできない。そのため、備前焼には、どんなに熟練しても到達できない「神の領域」があり、それ故、奥の深さは計り知れない。

陶芸家として、他の焼き物産地で一流とか、大家とか言われる名匠が、備前焼の魅力に触れて、備前焼に転向したり、カナダやアメリカから、備前市に移り住んで、登り窯を構えている外国人備前焼作家もいるくらいだ。

備前焼人間国宝藤原啓(1899~1983)が、東京の日本橋で個展を開いた時のことだ。その時、藤原は自分の一番のお気に入りの壺を出品した。もちろん、他人に譲渡する気は全く無かった。ただただ「自分の最高の出来の焼き物を、他人に自慢したかった」という想いだったのだ。しかし、幸か不幸か、その壷が、昭和天皇陛下の御目に触れてしまった。陛下は、「藤原の壺はいいね。」とだけ、おっしゃったらしい。それを聞いた藤原は、びびってしまった。

「陛下が、もし、この壷を御所望になられたとしたら、困る。もう、二度と同じものは焼けないから。」

そうして、その壺だけを持って夜行列車で岡山に逃げ帰ってしまった。なんか微笑ましい気がするが、きっと本人は真剣に悩んでのことだったろう。普通だったら、天皇陛下に「いいね。」と言われたら献上しない訳にはいかないだろう。けど、そのくらい藤原は自分の焼いた壺を気に入っていたのだ。たとえ、相手が天皇陛下と言えど手放したくなかったに違いない。なんかわかるよなあ。

のちの備前焼人間国宝藤原啓、54歳の頃のことであると聞いている。