親の家をかたづける 〈結核の母〉

親の家を、片付ければ片付けるほど、嫌な思いが蘇ってくる。というより、嫌な気分になるのも事実だ。親の家の片付けは、過ぎ去った昔を偲ぶことができるけれども、同時に子供のころから味わってきた嫌な事件を思い出すことにもつながる。
ボクにとって嫌な思い出とは100あれば、99は母にまつわることだ。ボクを生み育ててくれた人間を嫌うということは本当に不幸なことだ。ボクは母を送ってから十年経つが、葬式の時にも、法事の時にも、涙が出たことは一度もない。かといって、松居一代さんのように「あのばばあ‼やっとくたばりやがったか‼」などという気持ちになったわけではない。そんなことは決して思わない。

だけど、腹立たしい。母は本当に僕の気持ちを知っていたのだろうか、ボクのことを理解してくれていたのだろうかと考えてみると、彼女はボクのことなど全く考えていなかったと言える。母はどういう人物だったのか?なぜそういう人格が形成されてしまったのだろうか?答えは一つである。


ボクの母親は田舎の没落地主の長女として百姓家に生まれている。兄がいて軍人になった。妹が二人いて他家へ嫁いだ。母はボクに自身の経歴を永年、女学校卒と偽っていた。このことは母が死んでから後に、母の一番下の妹から聞かされた。女学校に入るには入ったが、すぐに、肺結核に感染してサナトリウムに入れられた。戦争が終わる前に病は小康状態を迎え、自宅治療となった。そのこともつい、最近、母の妹から聞いた。

息子の僕が見ても母は、万事、理解力に乏しく、身勝手で自己中心的で知能が低いのでは⁉と感じられるところがあった。字も下手だし、漢字が書けない。いつも、片仮名で字を書く。手紙も書類も片仮名ばかり。ボクは、長い間、こういう母の無教養、無神経ぶりは、戦争前の教育のせいだと思っていた。それは間違っていた。母の最終学歴は、尋常小卒、病が母をそういう人間にしたとも言えるし、祖父母のしつけや子育てが間違っていたとも言える。一番の不幸は、そうした人間として社会生活を送る上での常識を母自身が全く身に着けていなかった事、そして、そのことに関する自覚がなかった事である。


ボクは二十代の後半で結婚した。妻は成人式を終えたばかりであった。ほとんど子供のような妻に対して、嫁に来てからボクの母親は自覚のないまま、酷い態度を取り続けた。ボクがたまに見かねて母に抗議しても、息子の嫁に対してどんなに酷いことをしたという自覚がないため、母は驚いたような表情をするばかりだった。
結婚直前のことであったがボクと妻は母に呼ばれた。用件は二人とも健康診断に行って来いというものであった。ともに二十歳代で勤務先での定期健康診断で異常の無かったボクらは母の意図するところが理解できなかつたが、ボクは勝手に性病検査をして来いと母が言っているのだと解釈した。ボクらの結婚の直前に挙式をした先輩がいて、ちょうど彼が「結婚するので念のため、性病検査を受けてきた。」と言っていたのを聞いていたからであった。

検査結果はもちろん二人ともマイナス反応であった。二人とも身に覚えがないのであるから当然の結果なのだが、ボクはわざわざ妻を連れて健診結果の紙を持って母に報告した。事件はその時、起こった。

小柄で、痩せて、まるで病人のような母は、顔を真っ赤にして激怒した。「私はこんな検査をして来いと言った覚えはない‼」醜い顔をして母はボクたちを盛んに罵倒するが妻はもとより、ボクにもなぜ母がそんなに怒り狂うのか、まるで理由が分からない。ひとしきり怒鳴って、落ち着いた母に「それでは、何の健康診断をしてくればよかったのか?」と尋ねても、阿呆のような顔をしてボクには答えない。

あれから、ずいぶん長い時が経ってボクはあの時母が言いたかったことが分かった。母は自身が肺結核を患ってサナトリウムに入っていたということを父に一言も言わずに嫁に来た。昔は、結核と言えば不治の病である。もちろん感染する。そんな病歴を告白すれば、結婚なんかできるはずはない。母は自分の病歴を隠して父のもとに嫁いで来た。また、女学校にわずかな日数しか、在籍しなかったにも関わらず学歴を偽って女学校卒と言って結婚した。自分は健康体であると偽って父と婚姻した母はボクの妻にこう言いたかったに違いない。

「あんたは結核病患者でないやろね。病院に行って証明書をもらっておいで。」