以下はヤフーニュースのコピーです。スポーツ報知の記事

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ジャンボ鶴田が一番強い!「また戦いたい」最大のライバル、タイガー戸口が振り返る

2017年11月28日11時0分  スポーツ報知

 
 
 
  • 引退セレモニーで花束をかざしファンに応える(99年、日本武道館
 
 
 
  • ブロディからインター王座を奪取した(83年)(C)日本テレビ
 
 
 
  • 3冠王座戦でスタン・ハンセンに鉄柱攻撃(92年)
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 「最強の日本人プロレスラー」と言い切っても異論は出ないだろう。2000年に49歳の若さで亡くなった初代3冠ヘビー級王者のジャンボ鶴田さん。22日にDVDボックス「ジャンボ鶴田伝説」が発売されるなど、その神話は今も揺るがない。全日本プロレス時代、初期のライバルだったキム・ドクことタイガー戸口さん(69)が“ジャンボ”の強さを振り返った。

 クロースアップされる機会こそ多くないが、タイガー戸口さんは、“我こそはジャンボ鶴田の最大のライバル”と自負している。米国、韓国を行き来している戸口さんを千葉県に訪ねた。

 「鶴田が亡くなってもう17年ですか。でも、私にとっては36年間も『また戦いたい』と思い続けてきたわけですから、その倍ですよ」

 戸口さんは鶴田さんが「怪物」と呼ばれる前の「若大将」時代を知る数少ない先輩だ。72年ミュンヘン五輪レスリング代表だった鶴田さんは「全日本プロレスに就職します」という名言でエリート入団した。

 「オレがいた日本プロレスがガタガタになって、できたばかりの全日本に入門した鶴田の上には誰もいなかったんですよ。72年にミネアポリスにいた時にレスラー仲間(米国人)からアマリロ(テキサスのファンク道場)にトモミ・ツルタっていう日本人が修業がしてるよって評判を聞いた。74年に、サンアントニオでバトルロイヤルで戦ったのが最初だったかな」

 戸口さんが全日本プロレスに参戦した1976年から81年までの5年間で鶴田さんとのシングル成績は戸口さんの1反則負け9引き分け。197センチ、125キロの鶴田さんに対して、戸口さんは193センチ、125キロで体格的にも力いっぱいぶつかり合える相手だった。

 思い出すうち、戸口さんの口調はアツくなる。若大将時代の鶴田さんが保持したUNヘビー級選手権に戸口さんは2度挑戦し、2試合とも60分フルタイムを戦っての引き分け。78年9月13日の愛知県体育館での試合ではさらに5分延長して決着がつかない65分の死闘だった。

 当時は日本テレビが土曜午後8時に中継していたゴールデン時代だった。「この頃、鶴田はアントン・ヘーシンク(柔道五輪金メダリスト)と後楽園ホールでUNの防衛戦で反則勝ちという不完全燃焼試合をやった。「頭にきて、馬場さんに言ったんですよ。『鶴田にあんなみっともない試合させないでください。オレと鶴田だったら面白い試合になりますよ』って」と自ら“マッチメーク”して実現した試合だった。

 「この試合のために加賀友禅のガウンを150万円で新調したんだけど、入場の時に客に生卵をぶつけられた。ガウンに染み込んで終わりだよ。悔しくて、ガウンを脱いでたたきつけた。それだけ鶴田の人気がすごかったってこと。鶴田はテレビに出たり、ギター持ってコンサート開いたり、女性ファンが多かったもんね」

 「65分やって、すごい汗をかきました。試合前にサウナで汗をかきに行っておいて正解だった。初めてだよ。体がベタベタになったの。35分過ぎると汗が出なくなるんだよ。糊みたいにベタベタになるんだよ」

 「試合はオレがリードした。その後に鶴田が長州力と60分フルタイムで戦った時(1985年11月4日・大阪城ホール)に鶴田がリードしたようにね。馬場さんから『これからの全日本プロレスを2人で引っ張って行ってくれ』と言われた」

 最後の対決は、1981年4月8日の高知県体育館でのチャンピオン・カーニバル。30分時間切れ引き分けだった。「あれは決着つかない。馬場さんは鶴田をつぶさない。オレもつぶれない。だからややこしい」

 米国に妻子がいた戸口さんは、米国流の条件を求めた。その結果、初代タイガーマスクブームで黄金時代を迎えていた新日本プロレスからの、引き抜きに乗っかった。当時のジャイアント馬場社長は激怒し、以後、鶴田と同じリングに上がることは許されなかった。

 「鶴田はオレに辞めて欲しくなかったの知ってるもん。裏では会ってましたから」戸口さんが抜けたことで、大相撲元幕内から米国修業に出されていた天龍源一郎が呼び戻された。

 「ノースカロライナのおれの家の近くのホテルに泊まっていた天龍がやって来て『戸口さんやめるんだって。聞いたよ。オレが帰って来いっていわれたもん』って。天龍も米国が居心地がよくなっていた時だった。『いいじゃない。オレの代わりに三番手になれるんだから。帰りなよ』って、送り出した」

 その後の鶴龍コンビ、鶴龍対決が鶴田さんの怪物伝説に拍車をかけたことは言うまでもない。

 「やっぱり鶴田が一番強いですね。アマレスやってたからレスリングの基本はできていたし、試合がやりやすかった。歯車が合いすぎて面白かった。ニック(ボックウィンクル)がAWA(世界ヘビー級王座)を鶴田に渡すとは思わなかったけど、ミネアポリスバーン・ガニアのAWA、ロサンゼルスでハーリー・レイスのNWAに米国で挑戦していたオレと鶴田は引き分けたんだから」

 発売されたDVDボックス「ジャンボ鶴田伝説」には戸口戦は収録されていない。

 「オレは嫌われてるからしょうがないよ。外様だから。一匹狼でやってきたから。鶴田が勝っていない試合なんだからね」と寂しいながらも強がる戸口さんは、いい顔をしていた。

  (取材・酒井 隆之)

 胸に水平チョップ

 今でも胸に受けた水平チョップの“衝撃”が残っている。駆け出し記者だった1987年春、初めて全日本プロレスを取材。鶴田さんはタッグマッチで天龍組と対戦予定だった。試合前、鶴田さんの控室へ。「天龍さんは『ジャンボの得意技も使ってガンガン攻める』などと言っていますが…」と向けると「そうか。じゃあ、俺もガンガンいくよ」。

 ところが試合が始まるや、鶴田さんが勇んでリングに入るたび、天龍さんはパートナーと交代してしまう。闘志は空回りで、結果も負け。試合後、鶴田さんの談話を取ろうと近づいたら「お前、ウソつきやがって!」。怒声とともにチョップが胸板に飛んできた。驚きと激痛で尻餅をついてしまった。

 「天龍の駆け引きに翻弄され、鶴田完敗」。見たままを記事にしろとの指示もあって、そんな原稿を書いたが、翌日も取材。「今度は胸の打撲(全治10日)では済まないかも」。試合前、再び鶴田さんの控室へ行き「昨日はいいかげんなことを言ってすいません」。原稿を盛り上げるため、あおるような質問をわびると、鶴田さんは鋭くひとにらみ。だが次の瞬間、目尻が下がった。「谷口さんの記事だと、俺は完敗だったね」。…え? 怒られるどころか、名前を呼んでくれた。

 それから30分以上、取材のアプローチ方法などいろいろな話をしてくれた。「(タフな)プロレスラーだからって、何を書いてもいいってもんじゃない。俺が君の恋人だったら、こんな書き方はしないだろ? 愛情を持って接してほしいな。ま、俺が君の恋人だったら嫌だろうけど」。取材のたび気さくに声を掛けてくれた。その後、鶴田さんが筑波大大学院受験という独占ニュースを書くこともできた。

 90年3月。ポール・マッカートニーのライブで東京ドームの3列前に鶴田さんがいた。軽快な曲に、197センチの大きな影が楽しそうに揺れていたが、しばらくすると影は消えた。後ろの人が見えないといけないから、という気配り。イスに座って揺れる体は楽しそうだった。「ジャンボ鶴田」という名前が目に、耳に入るたびに、僕の胸は痛くてたまらない。