「歌舞伎座に行く 。」と嘘を言った 祖母を憎んでいたボク

祖母の出は、瀬戸内海の島の裕福な網元の家だったらしい。漁の仕事は他人任せで祖母の両親は、横浜で明治の中頃、始めたウィスキーやチーズの輸入業者をして、相当、羽振りが良かった。
ところが、両親が相次いで亡くなり家は没落した。明治の末年頃でも、まだ、珍しい洋装で母に連れられてよく歌舞伎を見に行ったとボクに語ったことがある。

ボクはこの祖母が嫌いで、昔は金持ちで裕福だったという祖母をまったく信用していなかった。
理由は彼女の虚言癖である。両親が死んでから、親戚中たらい回しの苦しい生活の中で祖母が身に付けた生きていくための能力は、嘘をついて我が身を守ることであった。
何しろ、毎日嘘を付く。ボクの物心ついた頃から、ボクが結婚した頃、そして、祖母が倒れて入院した頃、最後に彼女が亡くなる数日前まで嘘を付き続けた。
亡くなる前日に、ボクの母に「長い間、面倒かけてすまなかった。ありがとう。」と語ったが、それさえも嘘だったと思える。

とにかく、実の子供だろうと、嫁だろうと、孫だろうと、容赦しない。嘘をつきまくるから、兄弟、家族、親戚中でしょっちゅう、いざこざが起きる。

一番ひどい嘘は、祖母の三男が町田の山林だが雑種地を造成して宅地分譲した時だ。山師のまねごとをした三男の資金繰りは不調で資金は枯渇し、造成途中で計画は頓挫しかけた。三男は親戚、兄弟、田舎の知人などに金策を持ち掛け、支援をうけ、なんとか、持ち直した。1970年代初頭のことで、それから、東京で始まった第何次目かの住宅建築ブームの波に乗り、三男は借金を完済し、商品土地としてのタクトは完売し、そこそこの利益を上げた。利益の中から、支援者たちへの返済金と謝礼(配当金)をつけて渡した。

この時祖母は、次男に懇願され当時の金で二十万円ほど支援(出資)した。三男の商品土地完売の後、親せきゃ子供らの前で祖母は、いい気持になって大ぼらを吹いた。「この度の宅地造成事業で三男に二百万ほど融資したら、倍にして返してくれた。三男はやり手だ。有能だし、まったく親孝行だ。」

この時、事実を知らない親戚や他の兄弟は、自分たちには、元金の償還と金利程度の謝礼だったと三男に抗議したり、文句を言ったりした。三男はそれは母親の嘘だと言ったが、親せき兄弟は三男を絶縁した。三男は70歳を前にして胃がんで亡くなったが、とうとう死ぬまで故郷に戻ることはなかった。みんなに嫌われ、戻るべき故郷を失ったのだ。すべては実の母親の病気とも言えるいつもの虚言でね人生の後半を汚したのだ。


そのくらい祖母の嘘は日常的で家族やボクを苦しめた。ボクが子供のころ、横山光輝の「伊賀の影丸由井正雪の巻」を読んでいると、それを見て祖母が言った。
「お前が時代物に興味があるとは知らなかった。ばあちゃんは良く母親に連れられて歌舞伎座に行った。由井正雪も歌舞伎でよく見たもんだ。お前が見たけりゃ、今度連れて行ってやるよ。」


ボクは、見たいと思い素直に喜んだが祖母はボクを歌舞伎に連れて行かず、歳を取って認知症を患い、施設に七年入った挙句、実子に最期を看取られもせず、生涯を終えた。みなしごの人生で生涯、ウソをつき続け、身内に嫌われた祖母を、ボクは憎んだが、今はただ哀れで仕方ない。