つげ義春大全第19巻にはいよいよ「無能の人」が登場する。つげさん47歳の時の作品で
ある。(1985年)
これら一連の自身を投影させたかのように見せた完全なるフィクション。
それらを目にした1水木しげる御大でさえ以下のように述べたと言う。
「つげさんは苦労されているのですね。
石を売ってまで( 生活費を稼ごうとして)ですか?」
( 編集者高野慎三氏の証言より )
親友の高知の漫画家が亡くなって五年経つ。早いものだ。あの時は、彼の奥さんから連絡をもらったがまだコロナの余波があり葬儀には出なかった。香典を送ったのみだった。
かれは自身の長女の事はよく話題にしたが他の家族のことについては全く話さなかった。
だから、ボクもかれの長女については沢山知識を得ているし、テレビやYouTubeで彼女の女優業も見ているが、個人的に会ったことはない。
彼女にしても、見知らぬ老人が現れ貴方の父上の親友だと自己紹介されたところで胡散臭いと思うだろう。
だから、今後会うこともないだろう。
つげ義春さんの奇跡の一年半は1967年~1968年、30歳~31歳までを言うらしい。
僕が思うに、もう一つ、つげさんの創作活動人生において注目すべき年がある。
1961年7月つげさん24歳の年から1963年4月26歳までである。この間は『空白の2年』
と言っていい。この間、休筆状態であった。1961年7月『忍者くん』を発表して1963年
4月『野盗の砦』で再デビューするまで作品を描いていない。1961年7月『忍者くん』は
大塚で同棲していた金のかかる女性との生活を守るため、金を稼ぐ目的で必死で描いた
珍妙な作品(編集者高野慎三さんが聞いたと言う本人談)らしい。1963年4月『野盗の砦』
は東京トップ社の熱血編集者、熊 藤男さんに「時代は変わった。古い絵ではだめだ。」
と発破をかけられて描いたものだという。
1961年7月の『忍者くん』は手塚治虫先生と初期の白土三平さんのテイストだし、1963
年4月の『野盗の砦』はもうカムイ伝の始まったころの白土三平タッチをベースにしな
がら、台頭してきた劇画工房さいとう・たかをの影響が感じられる。まるで『空白の2
年』で、つげ義春が生まれ変わったかのような『変化』を感じ取ってしまう。
ゴルゴ13クロニクル1981年の作品集の巻頭に、
『今集の収録作品「穀物戦争蟷螂の斧」には、初出掲載時、霞が関からこの情報をどこから手に入れたのかという問い合わせがありました。 シナリオ執筆の木村はじめ氏の答えは、この程度の情報なら少し規模の大きい図書館に行けば、どこででも手に入りますよというものでした。 木村氏は著者の評価の高いライターの一人でしたね。』
と、あります。
さいとう・たかをさんが木村はじめさんの脚本を高く評価していたというエピソードなんですが、政府の霞が関の役人もバカで、ゴルゴ13を読んで国際情勢を勉強していたつもりだったのが、いかにも国家機密の一部らしいことが劇画のゴルゴ13に描かれているので、慌てて問い合わせてきて木村はじめ氏に、どこの図書館でもこれぐらいのことは情報として手に入ると言ってバカにされたというお話でもないんでしょうがね。
1968~1973年、つげさんが31歳から36歳に至るまで最も多作で問題作、代表作などを量産した時代である。この巻に限るなら、ボク個人としては、温泉、宿、旅行、渓谷、釣り、に限ったつげさん得意の紀行ものがとても面白いと思う。
長八の宿
二岐渓谷
オンドル小屋
ほんやら洞のべんさん
ゲンセンカン主人
モッキリ屋の少女
やなぎ屋主人
懐かしいひと
リアリズムの宿
などである。
故人で親友の耕地の漫画家は『ゲンセンカン主人』が一番好きだった。
どうゆうところが好きなのか、今となっては確かめようもない。
で、この巻に有名な『ねじ式』が収められている。最初に『ガロ』に発表されてから、
何回か描き替えられているということとも初めて知った。『メメクラゲ』が印刷過程の
誤植の産物であったということも然りである。
余談ながら、つげ義春さんの「奇跡の一年」あるいは「奇跡の二年」とも呼ばれる時期は1967年、1968年のことである。