11月25 日の武道館は7000人もいて何が何だか、わからんかった。
再来年、大阪城ホールでやってくれるらしいから、
そっちの方が近くていい。
命があったら、ボケてなければ、きっと行く!
12月6日ふくやま文化ホール、こっちは2000人でフルハウスだ。
ちょっと田舎でいつもの純烈地方公演的な感じで
和やかに楽しめるかなと思いきや、マナーのよろしくないお客がいて
愉快ではなかった。
広島のファンが一番マナーが良くないと言われないようにして欲しい。
(実はすでに言われている。)
この日も初めて純烈を見るファンらしいが、裕二郎さんが歌いながら
ラウンドで握手している時にマナーの良くない老夫婦が
自分の席から飛び出して、きちんと着席して順番に裕二郎さんとの
握手を待っているファンを押しのけて裕二郎さんに迫っていた。
他人ながらみっともなかった。ボクなんかタオルやポスターを
掲げるときでさえ後ろのお客さんに気兼ねしてやっているのに。
でも歌手や他のファンに気を遣うのが当たり前だと思う。
中には体の不自由な人も高齢の人もいる。
あの夫婦のように自分のことだけ考えて歌手に突進して行ったら
裕二郎さんでなくてもびっくりする。
裕二郎さんは歌うのをやめてその夫婦から少し距離を取っていた。
ぶつかったりして他のファンがけがでもしたら大変なことになる。
純烈のコンサートの時、会場の近所のラーメン屋さんで火事騒ぎがあったり、
コンサート中、体調不良の御婦人が倒れたりしたこともあったけど、
今回の福山の暴走夫婦はあかんかった。
もう、ああいうマナー違反はやめていただきたい。
他の広島のファンのためにも。最低限のルールは守ってください。
読んでみた「力道山と日本プロレス史」梶原一騎著
梶原一騎さんの「力道山と日本プロレス史」という本がある。
1996年に弓立社から出された初版本だ。28年前のものだ。
底本は1971年の曙出版と記されている。
53年経つから古本屋でも見つけにくいだろう。
本文の273ページ分は力関ご存命の頃にスポーツ新聞に
連載していたものだと前書きに書かれている。
力関が亡くなられたのが1963年12月15日だから
梶原さんの元原稿は60数年前のものということになる。
貴重だ。
ボクは当時、田舎の小学生だったから力関の情報は、
ディズニーランドと一週間交代で放送される
三菱ダイヤモンドアワープロレス中継しかなかった。
当時梶原さんはまだ漫画の原作は書いてなかったという。
少年マガジンで「チャンピオン太」が連載され
日曜日の朝、実写ドラマ「チャンピオン太」に力関が
実名で出演するのは少し後のことである。
だから、大人の目から見た力道山ストーリーが読めるのはとてもうれしい。
だが、読み返してみてわかったことだがこの文章はスポーツ新聞の読者以前に
力関に読んでもらうために書かれたものだ。
こういう不遜な事は言うべきでないが真実はそうだと想像する。
別に梶原さんや力関を貶めるつもりは全くない。
大衆娯楽新聞の提灯記事とも毛頭思っていない。
スポーツ新聞ならではの力関の大相撲時代やプロレスの黎明期の
写真がふんだんに載せられている。
本文は虚実ない交ぜで、梶原さん得意の実名物語( 実在の人物が
本名で登場して時代とともに行動するという筋立て )となっている。
現在まことしやかに伝えられている数々のエピソードや今では
伝説化している力関の物語を読むことができる。
それも当時小学生で知らなかったボクにとっては嬉しい。
金曜夜8時に悪い外国人を空手チョップでなぎ倒す正義のヒーローが
ある時僕らの前から消えた。あの喪失感は今も忘れない。
☆ ☆ ☆
本編には貴重な写真がたくさん掲載されている
ハロルド坂田とか中国武術をする牛島辰熊とか木村正彦氏と和解する力関。
ダラ・シン、四股のきれいな東富士関、シャープ兄弟、ルー・テーズ、
インディアン号で場所入りする力関など等。見ていてとてもうれしい。
昭和のヒーローたち
銀幕のスター俳優・赤木圭一郎が生きていたら、今年で84歳になる。
ジェームス・ディーンと八代目・市川雷蔵は同い年だから、生きていれば、共に93歳だ。
プロレスラー・力道山は満100歳のはずだし、ジョン・F・ケネディは生誕108年を迎える。
いずれもボクの幼い頃のヒーローたちである。
もしも、彼らが生きていたら・・・と今でも残念でならない。
ジェームス・ディーンは、1955年9月30日に24歳で交通事故で亡くなっている。
ボクは一歳半だから、知る由もない。
ジェームス・ディーンの存在を知ったのは、赤木圭一郎が亡くなってからあとのことだ。
和製ジェームス・ディーンと言われた赤木圭一郎は、1961年2月14日調布撮影所で、
ゴーカートに乗っていて事故を起こし、一週間後に亡くなっている。
この時、ボクは7歳、小学校一年生だった。
7歳だったとはいえ、この事はよく覚えている。
日活アクション映画の大ファンだった母親と初めて映画館で見たのが、
小林旭の「銀座旋風児」だった。それは1959年のことでボクはまだ5歳。
未就学児童で、「銀座旋風児」が言えず「銀座扇風機」と言って母を笑わせていたそうだ。
日活アクション映画では小林旭と赤木圭一郎が大好きだった。
石原裕次郎は大人のファンが多かったのと、裕次郎の放つカリスマ性と深いメッセージが
複雑な思いがして苦手だった。
それに対して、小林旭の、なーんにも考えてないようなパープリンな底抜けの明るさと
腕っぷしの強さ(という演技)、また赤木の暗い憂いを含んだ瞳と独特な早口の台詞回し、
殺し屋のくせに決して人を殺さない拳銃の名手、
劇中、突然流れ出す調子っぱずれだが一度聞いたら絶対忘れられない歌声、
そのどれもが大好きだった。
赤木の死亡を知った時、ボクは
「旭は大丈夫なの?」
と母親に尋ねた。
赤木は誰かに殺されたのではないかと妄想し、次いで小林旭の安否を尋ねたのだ。
宍戸錠は竜(大好きだった「拳銃無頼帖」での赤木の役名)を殺す筈はない。
藤村有広が犯人に違いないと思った。変な日本語を喋る謎の外国人を怪しいと思った。
近所の駄菓子屋の親爺が、子供心に藤村有広そっくりで憎らしいと思った。
赤木圭一郎が死んでから、母親は映画を見なくなった。ボクもテレビばかり見るようになった。
その頃テレビでは、しばしば、アメリカの若き大統領ジョン・F・ケネディのことを報じていた。
ケネディも子供達の間では、ヒーローだった。強くて大きく正しいアメリカの象徴だったのだ。
その大好きなケネディが死んだ!
銃で撃たれて殺された。
すぐ犯人と言う男が捕まった。
が、この犯人も白昼、公衆の面前で別の男に射殺された。それもテレビで知った。
アメリカは怖くて乱暴でめちゃくちゃな国になってしまった。
それが、1963年11月22日のことでケネディは46歳。ボクは小学校3年生9歳だった。
驚いたことに翌月もヒーローが死んだ。
同年12月15日、東京赤坂のナイトクラブで力道山が酔って喧嘩し、
ナイフで腹を刺されて入院した。
テレビドラマや映画にもたびたび出演する正義のヒーローだった力道山だから、
大したこと無いだろうと思っていたら、一週間くらいして、亡くなったとテレビが突然報じた。
まだ、39歳だった。
この時、ボクは泣きながら母親に、
「母ちゃん! なんで力道山、死んだんや?」
と、しつこく尋ねていた。
正義のヒーローが死ぬと言う不条理に我慢が出来なかった。
それからは、子供心に熱中するヒーローを持つことを意識的に避けた。
思い入れが深いほど、ヒーローが消えた時の悲しみは深いということを知った。
昭和のヒーローたちは夭逝の人が多かった。
今、テレビの映像で昭和のヒーローたちの懐かしい姿を見るたび、
あの時代の悲しみが蘇って来る。
ヒーローたちは生き急ぎ、時代を形づくり、昭和を駆け抜けて行った。
弾丸の立ち合い・電光石火の早技〈好漢三田大生の相撲〉
SNSで三田大生君の相撲の取り口についてやたら批判する
輩がいるので少し言わせてください。
幕下力士の彼は力士養成員だ。関取じゃあない。
そこんところ分かるか?
理解してるか?
ひと場所たったの七番しか相撲が取れない。
ひとつの白星の重みが、あんた(批判している奴)にわかるのか。
取的はプロ(十両)になるため命がけでやっているんだ。
技術的には関取に劣るケースもあるかもしれないが、
弱いわけでも臆病でもなく皆それぞれに背負うものがあって
一番一番死ぬ気で相撲を取っているんだ。
これが十両以上でお客に見せるための相撲だったら、
引き技、すかし技、立ち会いの変化なんかが批判されても仕方ない。
平幕でも勝ち越しがかかっていたり、体調不良だったら
お客もまあまあ納得するだろう。
大関でも貴景勝は、熱海富士と取った時、立ち合い変化した。
批判されたけど誰もが首を負傷している大関の相撲を
責めたりはできないはずだ。
相撲は殺し合いじゃないんだ。死ぬ気で相撲取るは気構えを言っている。
首を負傷しているのに頭から当たったら本当に死ぬぞ。
翻って三田大生君はお客に相撲の取り口を見てもらうために
七番取っているんじゃないのだ。勝って勝って勝ち続けて、
上に上に上がって関取になるために頑張っているんだ。
きれいな相撲を取って負け越してなんの意味があるんだ。
引いても落としても変わっても勝ち越して初めて
力士養成員としての三田君の相撲の意味があるんだ。
それに彼は引くにしても変わるにしても必ず一回頭で
当たっている。ものすごいスピードで当たっている。
最初から逃げてるわけじゃない。
一番だけ立ち会いで当たらず変化して負けている。
それはそれで反省すればいい。「負けて覚える相撲かな」だ。
三田君が引き落としや変化で勝ったとしても立ち合い
正々堂々正面から当たっている限りは立派な業師だ。
余談ながら尊富士が優勝した時の狼雅戦。
尊富士は当たると見せて立ち合いの変化。
高校時代、外国人で初の高校チャンピオンとなった狼雅に
準決勝で負けて三位となった尊富士はそれ以来、
立ち合いで逃げたくなるほど狼雅の強さを知っていたんだ。
幕尻だったから誰も尊富士の取り口を逃げたとは
言わなかったが尊富士はその後、白星を重ね優勝した。
最後に繰り返すが三田君はあの小さな体でまるで弾丸みたいな
ものすごいスピードで頭から相手に当たっている。
その瞬間に引いたり落としたりいなしたりの早技を決める。
早すぎてどうやって勝ったかわからないくらいだ。
威風堂々電光石火の立ち合いだ。
三田君が十両に上がった時どう相撲が変わっていくか。
それをみてから批判すんならやってくれ。
あんた(批判してるやつ)も相撲が好きなんだよな。
それで三田大生君のファンなんだろ。
応援してくれ。お願いしますよ。
土日楽しみ!坂上DR二子山部屋YouTubechannel
近大時代の三田大生君も精悍な顔つきで好きだが、
初めてYouTubeで登場した時の三田君のカッコよさと
初々しさが、また、よかった。
坊主頭で合宿に参加し生田目関に散々イジラレながら
登場したけど、生田目関はさすがの才能。
三田君の幼少から二子山部屋入門までのストーリーを
諸々のエピソードを交えながら一挙公開してくれました。
いっぺんでファンになってしまいました。
最近髪の毛が伸びてきて「モンチッチに似て可愛い。」と
家の人が言うてました。表現が古い。
三田君の決まり手について引いたりかわしたりが多いとか
また大学時代の三田君がSNSで美少女と映っている写真を
とやかく言う輩がいて、やぐらしかたい!!
君らが三田君のファンならニコニコ笑いながら応援しなさい。
ファンじゃないなら黙っていなさい。
熊と記念館・晩秋の青梅風景
八王子からでも青梅は遠かった。秋の終わりに吉川英治先生の記念館に行こうとした。
JRとバスを乗り継いで記念館に着いた時には夕暮れが迫っていた。
そのころ、青梅市にも冬眠前の熊が出没するというニュースが流れていて怖かった。
ボクが青梅に言った前日にも冬眠前の熊が山から下りてきて食料品店に立てこもって猟友会が出動したとかラジオで聞いたばかりだった。
吉川英治先生の記念館も来年の春まで閉館するということでボクが訪問できたのはラッキーだった。青梅の冬は寒くて熊も冬眠、記念館も休館するのだそうだ。
青梅の駅前には赤塚不二夫記念館もあったし、JRのホームや町のいたるところに名画の看板が出ていたのは大変ありがたかった。
なぜか青梅には晩秋の候が良く似合っていた。
ハロルド坂田と缶入飲料水
ボクがハワイのホノルルでハロルド坂田氏に会ったのは1980年。
当時ハワイ売られていた缶ジュースや缶入りコーラはプルタブを引くと
アルミの蓋部分が缶の中の飲料水に沈み込む方式だった。
(埃がついていたら不潔だなあ)と思いながら飲んでいた。
今は日本でもそれが当たり前だが、当時は日本の缶入り飲料水は、
アメリカのと逆で、プルタブを引くと缶の外に浮き上がっていた。
だから国内で缶コーヒーや缶ジュースを飲む時は不潔感はなかったが、
指や唇を怪我する人がいて沈み込み式のプルタブに変わったみたいだ。
今でもたまに缶コーヒーを飲んだりする時浮き上がっていたプルタブと
ハロルド坂田さんを思い出す。
余談だけど、日本語全くしゃべらんかったな。