男はみんなプロレスラー1982/10村松友視著

男はみんなプロレスラー
男はみんなプロレスラーって、極端なタイトルだけど、昭和の最後半の大プロレスブームのころだから、立派に通用してたんだ。こういう言い回しが。

そういえば、プロレスは地上波でゴールデンタイムの放送だった。今はそうじゃない。

例えば、シェーッ‼と叫べば、世間のほとんどの人には、良い悪いは別にして通じていた赤塚不二夫のあの漫画のギャグと同じように、プロレスも、リアルかフェイクかは別にして、ちゃんと通じていた。今は残念なことにそうじゃない。

この直木賞作家のプロレス本は複数あるが、当時は読んで面白かった。私、プロレスの味方ですなどと言うタイトルからして、面白かったが、今はそうじゃない。
テレビの地上波から消えたプロレス番組に似てどこか、見ていて覚めてしまう自分がいる。

ブームが去ったからだろうか?レスラーもファンもプロレス物書きも歳を取る。熱は、いつか冷める。昭和の終焉と共にテレビのプロレス番組は地上波から消え、男はみんなプロレスラーとは言えなくなったのだろう。まさに時のうつろいを感じてしまう。

昭和40年男 増刊号「昭和プロレス大全」

父 力道山 百田兄弟著

1983年初版の「父・力道山勁文社刊。日本プロレスの父力道山の実像に迫る。実子であるがゆえに見えた人間力道山の人生。
今から36年ほど前に初めて読んだ時にも、過去に出版されていた力道山本と重なる部分もあったが、実子と言えど、力道山のすべてを知っているわけではないため、それまでの書籍からの引用もあるのはやむを得ないが、ボクが興味を持ったのは力道山の起業家、実業家としての部分である。

そもそも、力道山にプロレスとの出会いのきっかけを与えたのは、ハロルド坂田と言われているが、この映画俳優兼レスラーの晩年は経済的には困窮していたようだ。
ボクは、ハロルド坂田本人とは知らずに、彼が亡くなる前の年に彼に会っている。
ハロルド坂田が生きていたら、百田兄弟の著作に記されている力道山のレスラーとしての、また、起業家、実業家としての生きざまについて、あれこれと詳しく聞くこともできたはずなのに。
あの時代を生きていて、そういうチャンスがあったにも関わらず、知らずに過ごしてしまった。かえすがえすも残念でならない。

じいちゃんと村社講平選手

村社講平さんはベルリンオリンピックで活躍した選手さんですが、じいちゃんは死ぬまで尊敬し続けていました。村社先生が95歳まで生きたから、自分もそれまで健康で生き続けるというのが口癖でした。

けれど、尊敬する大先輩と同じ寿命を保ち続けたというのでは恐れ多いと思ったのか、95歳の誕生日の一週間前に往生しました。

 

ベルリンオリンピックの後、甲子園の陸上トラックで四百を走って、村社選手に勝ったというのが生涯の自慢でした。村社先生は確か、五千、一万の選手だったと思いますし、年齢もじいちゃんのほうが当時はずっと若いし上り調子で比較してはいけないんですが、よっぽどうれしかったみたいです。

 

ボクがあるとき、

「じいちゃんの四百のベストは?」

と尋ねると、

「43秒9‼」

と答えました。

 

今頃、天国で村社講平さんに、

「嘘はいかんぞ!」

と、叱られているのできないかと思います。

船木誠勝選手の巌流島①

INOKI BOM-BA-YE

船木誠勝選手の巌流島
宮本武蔵と津田小次郎の巌流島の話のついでに言うと、プロレスの船木誠勝選手が若手の時、師匠のアントニオ猪木マサ斎藤と巌流島でプロレスのノーテレビマッチをやった。その時、前乗りで巌流島に行くようにと業務命令があった。


面白いのはここからで。
国際俳優、パンクラス創始者、健康・ダイエット本の著者、母親孝行、妻は女優などなどエピソードに事欠かない人気プロレスラーの船木さんだが、実は謹厳実直な人柄で十五歳で新プロレスに入門して以来、人生もプロレスもガチンコそのもの。スターになっていく同期や後輩のレスラーの誰よりもレスリングや人生に対して真摯に向き合う。


猪木社長の思い付きによる巌流島決戦の時はまだまだ子供であった。けど、レスリングに対するひたむき日ゆえに猪木社長にオーディエンスのいない、ノーテレビマッチ(ギャラの発生しないもの好きな真剣勝負)の立ち合いを許されたのであろう。

 

「船木よ。俺の背中を見ろ。何かをつかみ取れ‼」

 

という、猪木社長の親心であったに違いない。
ところが、子供であった船木君は、そうは思っちゃいない。

まじめで、従順な少年だが、内心はそうは思っちゃいない。


「付き人でもないのに、なんでボクが前乗りなんだろう。明日の巡業が気になるなあ。自分の試合のことだけ考えたいのに。早く強くなって、皆のように海外遠征にも行きたいのに。」

 

前乗りしたがリングは会社の人がすでに設営済み。夜に備えて松明、かがり火の用意も完了している。プレス関係だけはすでに巌流島に到着している。

船木少年は面白くないのであった。その後、巌流島で何があったか、船木は何を見たか?山口特産ふくさしは食べることができたのか?   (後編に続く)←なんだ、この終わり方はっ?自分で言うか。

 

船木誠勝のハイブリッド肉体改造法

剣道はしない

剣道はしない。

剣道は竹刀というダジャレではなくて、剣道はやらないという意味だ。

 

やらないので、宮本武蔵VS吉岡憲法の逸話を司馬遼太郎先生の文庫で読んだが今一つピンとこない。彼らの時代には剣道=剣術=兵法と戦場での戦闘=戦働きとは全くの別物であったらしい。

分かるような分からないような気がする。

 

ただ、司馬遼太郎先生は文藝春秋誌での義弟の言によると資料を神田の書店からトラック買いで取り寄せていたというから、より史実に近い所から小説の筋を構築していたと思われる。だから、京流剣術道場の看板を下ろした後の吉岡憲法四代目が染物屋の隠居になった後、津山藩士二名に襲われた時、扇子一本であしらった話などと言うのは、あながち作り話ではなかったというような気がする。そしてこれは吉岡憲法四代目が京都所司代の要請の御前試合で宮本武蔵と引き分けた後のことである。

 

つまり、戦前に吉川英治先生が参考にした武蔵の養子の伊織の手による小倉碑文とは一致しないことになる。同碑文には宮本武蔵が京流吉岡憲法一門を根絶やしにしたとしている。

そうしてみると、次には吉川英治先生が下関の漁業従事者の家の伝承をもとに描いた宮本武蔵と津田小次郎の決闘はどうだろうかと疑問に思ってしまう。

 

吉川英治先生が小説宮本武蔵を世に出したころは日本が太平洋戦争に向かっていく世相の中であったから、そんなストーリーになってしまったのだろうか。そうだとすれば吉岡家の子孫の方々には不名誉な話である。一方の津田小次郎についてはその実在についてすら不詳である。なお、講談や吉川英治先生はこの島で武蔵に負けた剣士のことを佐々木小次郎と表現している。

 

けど、正直に言うと、剣道はしない、ので、あまり興味はない。

 

 

 

 

 

 

日本で初めてやったのは誰?

今週の?バキ道は、元貴乃花親方みたいな人が登場してきて、スクネをけしかけて、高安みたいな顔した大関に絡むという話なんだけど、それは置いといて。

BEASTARSの作者の板垣パルさんが23歳、武蔵美のOGで多分、板垣恵介先生の三女じゃないかと、世間ではもっぱら、そういう話題で持ちきりらしいと言う件も置いといて。

ボクが今週の週刊少年チャンピオンを少ない年金の中から小遣いをはたいて購入したのは、つのだじろう先生の恐怖新聞が、創刊五十周年企画で掲載されていたからだ。作品は当時のものを載せているだけだけど、つのだじろうさんのインタビュー記事がうれしいやん。面白い話満載でした。さすが、梶原一騎先生ブラザーズともめた大漫画家‼元祖トキワ荘メンバーだけのことはあるエピソードがうれしかった。

日本で初めてスクリーントーンを使ったのは、つのだじろう先生だったんや。すぐにトキワ荘の漫画家があれはどうやるんだと聞きに来て、翌週からは、漫画の神様、手塚治虫先生も真似して使いだしたなんて、素敵な話じゃないか。


で、そのあと、ボクは昼飯食いながら、YouTube船木誠勝選手のプロレスの話をみていたら、日本で初めてアンクル・ホールド(足固め)を使ったのは船木選手だったということを知った。それで、この話も、つのだじろうさんのスクリーントーンの話と共通していて面白いと思ったわけです。

船木さんが試合でアンクル・ホールドで勝つと、前田選手と高田選手が飛んできて、あれはなんだ?どういう技だ?教えろという。
先輩に尋ねられたらいやだと言えないし、もともと、人のいい船木さんが技を教えると、次の試合から前田さんも高田さんもなんとそれを船木さんに仕掛けてきたという。で、船木さんの素晴らしいところは、さすが先輩だと感心している。

 

ボクだったら、スクリーントーンも、アンクルホールドも教えない。スクリーントーン教室やアンクルホールド講習会を開いて、それぞれ授業料を取る。もしくは、特許申請して「日本初」、「元祖」か「家元」を名乗る。そして、そのパテントで一生、遊んで食っていく。無理か‼