空海 < 弘法大師 > について

眠れないほど面白い 空海の生涯―――1200年前の巨人の日常が甦る! (王様文庫)

田舎に柚子を取りに行った時に、父親が司馬遼太郎の「空海の風景」(タイトルうろ覚え)の文庫本を持っていたような記憶があったので、本棚を探し回ったが発見できなかった。
 
代わりに見た本で小学館から出ている「人物日本の歴史」という箱入りのシリーズ本があった。一巻に五人くらいの日本の偉人について記載があり、20巻あったので空海を調べた。
 
さすが弘法大師だ。日本を代表する人物100人にランクインしていた。天武天皇とか、織田、豊臣、徳川、坂本龍馬吉田茂が入っていた。
 
三島由紀夫は入っていない。この本は三島の生前に購入したので、当時の三島の世間の評価がノーベル賞候補の言動の変わった小説家という程度のものだったらしく、バカ野郎解散の吉田茂には及ばなかったらしい。
空海は入っているが、宿命のライバル最澄の名はなかった。

空海

 
で、「人物日本の歴史」をよんで驚いた。さきに 読んだ「空海の生涯」と書かれている内容がほぼ一致していた。
 
これは、おそらく、両方の本の著者が選んだ底本が同一のものだったのだろう。
 
仕方ないことだと思う。例えば、坂本龍馬の伝記だったら、生前、没後、近年、いろいろな立場のいろいろな人が描いているから、著者の抱くイメージで、性格の違う様々な龍馬の人物像が表現される。
 
けれど、1200年近く前の空海については、そもそも字を書ける人が皇室や僧侶、唐への留学経験者に限られるから、少数の限られた空海像が定着したのだらふ。知らんけどな。
 

介護と相続にまつわるお金の話・ボクの場合

 

 

ムリなくできる親の介護 使える制度は使う、頼れる人に頼る、便利なツールは試す!

 

ボクは、七年間、父を看てきた。

やがて、遠距離介護の限界を感じて、介護施設を見つけてきた。

最初嫌がっていた父も、やがてそこの暮らしが気に入って友達もできた。

あいかわらず、無理を言うこともあったが、毎朝、800キロ離れた自宅から父に「生存確認」の電話を入れた。

 

帰省した時には、ずっと介護施設にいてたまに、実家の掃除に帰っていた。

ある時、父が銀行と登記所に連れて行けと言い出した。

 

「わしも、なげえーことないけえのう。ボロ家(自宅)と預金通帳の名義をぬしにしちゃる。」

「そがいなこと、せんでもええがな。」

「あかん。わしゃー○○の亭主(姉の夫)は、でえきれーじゃけえー。」

 

父は、預金と不動産をボクの名前にした。

不動産は相続税の生前非課税制度を利用した。

雀の涙ほどの年金口座の残金は一度、現金で出金して、ボクの口座に入れた。

父の年金受給口座には十万ほど残った。

 

 

銀行で長時間いたため、父はもよおしてきた。

「いけん。出る。」

「うわーっ!ここで出したらいけんどーっ‼」

 

銀行のトイレに飛び込んだんが、遅かった。

ボクは、泣きながら、後始末をして清掃した。

銀行の支店長代理に詫びを言った。

銀行は掃除してきれいにしてもらって~と恐縮していた。

 

車の中に、消臭剤、替えのおむつ、濡れティッシュ、ビニール袋など積んでいていつでも有事の備えをしていたのが奏功した。(んな、大げさな。)

いや、高齢者を見るというのは、そういうことで、常々、準備しておくことだと思う。

 

「ああ、すっきりした。」

 

と、父が言うので、ボクは帰りの車の中で、内心怒っていた。

が、父がすっきりしたと言ったのは、相続というか、生前、非課税贈与が片付いたので、遺産相続(ゆうても、資産、財産らしきものは無いけど。)問題で、姉と姉の主人とボクが喧嘩することはなくなったのでスッキリしたと言いたかったらしい。

 

数か月後、父の入居していた村の介護施設から連絡があった。父が亡くなった。

朝の食事時、誤嚥性肺炎だった。救急車で国立病院に搬送されたが、手遅れだった。

 

 

四十九日が済んで、村役場から電話があった。

お父様は事故死扱いとなり、村の方で掛けていた生命保険金が下りましたという連絡だった。

ボクは保険金請求書に姉の名前を書いて、姉のもとに送った。

 

「保険金ゆうても、五万円くれるんか、十万円か知らんけど、姉さんがとっておいてくれ。」

と電話したら、不動産の名義変更や通帳の残高がないことを知った姉は、

 

「こんなはした金なんか、いらんわ‼」

 

と言って、姉自身の印鑑証明書などとともに送り返してきた。(受け取らなくても、書類は必要だった。)

 

気分が悪かったが、ボクは保険金受取人欄にボクのの名前を書いて保険会社に郵送した。

 

三週間後に、ボクの口座に保険会社から五百万円の振り込み入金がされた。葬式代とお墓さんの移設、墓じまい、墓石代で五百万円は、すぐに消えた。

 古い父親の住まいとわずかばかりの宅地がボクの手元に残った。相続するとはそういうことだ。金持ちになった訳でもない。姉とは喧嘩別れしてそのままだ。

 

それでも、少しは父の手助けになったという自己満と思い出がボクの心に残った。

紅白歌手「純烈」で一番ケンカが強いのは誰?

好きだよ

一番強いのは文句なく白川裕二郎さんだ。

神奈川の高校柔道の猛者であり、朝日山部屋で序二段まで行った力士であったことから間違いなく、強い。
43歳の後厄だが、今も鍛え続けている。

リーダーの酒井一圭さんが5年間、プロレスMUSCLEに参加していた縁で三十歳の後半でリングに上がったことがある。その時、ビッグ・パンダの着ぐるみを着たレスラーに対して「ヒップアタック」を放ったことがある。ヒップアタックがプロレス技として効くのかと言うと、効く!古くはサンダー杉山の垂直型のヒップアタック。ちょっと前では、越中史郎の水平型のフライングヒップアタックが有名だ。

裕二郎さんのは、越中史郎選手のに似ている。越中はガチンコレスラーだ。異種格闘技戦で空手家をノックアウトした時もヒップアタックを使った。

その技を使った白川選手は只者ではない。彼の体幹の良さと格闘技センスを物語るエピソードだ。


それから、ファンクラブのマダムが、白川さんに尋ねたことがある。ステージで「スターライト札幌」を歌った時だ。

「白川さん。もう廻し蹴りは、しないの?」

何のことかと言うと、この「スターライト札幌」という曲の終わりに歌い終えた裕二郎さんが「バック・スピン・キック」をすることがあるのだ。


これは非常に難度の高い技で、小林邦明、佐山サトル(初代タイガーマスク)の得意技である。身長が1メートル80センチ以上の日本人でこの技ができるのは、死んだ橋本真也選手と白川裕二郎だけだ。

さすがに廻し蹴りと言う言い方は古いが、バックスピンキック一つをとっても、彼が喧嘩に強いという証と言えよう。


歌手だからね、別に喧嘩が弱くてもいいんだけどね。
 
 

ゆう―白川裕二郎写真集

☆蛍光文字使用☆【ジャンボうちわ用プリントシール】【純烈/白川 裕二郎】『裕ちゃん/裕二郎さん』《タイプ1》全シールカット済みなので簡単に貼れる!

純烈 直筆サイン 酒井一圭 白川裕二郎 小田井涼平 友井雄亮 後上翔太 林田達也 入札価格=落札価格の早い者勝ち設定

純烈 プロポーズ~ありがとうBOX~ チラシ フライヤー 白川裕二郎 酒井一圭 小田井涼平 後上翔太 友井雄亮

絵柄だけ残る ステッカー M 「純烈」 白 028W

好きだよ

 

部下のミスの責任を取らされ上司と喧嘩し左遷されおかげで命が助かった

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わしの部下が海上保安庁に客の個人情報をファックスで誤送信したという事故で、そいつとわしは支店長から、ぶつくさと言われ、最後に「絶対に他言無用」としつこく念を押された。
 
翌週、本店で会議があり、同期が集まったら全員が誤送信の話を知っていた。「誰に聞いた?」と一人ずつ問い詰めたら皆、「お前とこの支店長からうちの支店長に電話で言うて来た。」と異口同音の答え。
 
腹立ったので支店に帰ってから、「誤送信の話ですけど全店に知れ渡ってまっせ。なんぼ、わしが黙っとっても、この支店の中に、全店に言いふらしとる大馬鹿もん!がおるみたいやから。」と大馬鹿もんに力を入れて言うてやった。
そしたら、
その直後の異動で事務センターに飛ばされ9時~5時の仕事になった。
変なとこで、意固地になる性格やから、振り返ると飛び上がるくらい恥かしい。
 
だけどヒマなもんでたまたま受けた健康診断で心音異常が見つかり弁膜症の手術をした。閑職に飛ばされたおかげで心臓病が発見できた。手術後もゆっくり休み、最後の一週間は富士山が見たいと嫁が言うので車で温泉宿を連泊して富士山と伊豆半島を見て回った。
 
 
 
でもあのまま、支店勤務だったら、激務で僧帽弁膜症のまま、苦しがりつつ死んでいたかも知れない。そう考えると誤送信してくれた部下のおかげで命が助かったと言えないこともない。

ありがたやありがたや。

赤坂見附おもいでの人達<プロレスラーや芸能人>

 

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学生の時、ホテルニューオオタニの会員制サウナクラブでアルバイトをしていた。会員さんとビジターがいたが、有名人、芸能人、政治家等がけっこういた。

ある時、亀田様と言うお客様に電話がかかって来た。ボーイをしていたボクは、サウナ、浴室、プール、ラウンジと告げて回った。
「亀田様、お電話です。亀田様、いらっしゃいますか?」
マッサージルームに声をかけた時、一人の青年がやって来た。
「亀田はボクですけど。」
目の前にフォーリーブス江木俊夫さんがいた。マグマ大使以来のファンだったボクは感激した。

また、当時、新日本プロレス異種格闘技路線を打ち出していた。会員のアントニオ猪木さんが、来た翌週には、オランダの赤鬼ウィリアム・ルスカさんがビジターとして、やって来た。金髪がかっこよかった。いっしょにバイトしていた山本君なんか、ルスカ選手のあまりのかっこよさにしびれて、「猪木なんか、負けちまえ。」と暴言を吐いた。猪木-ルスカの異種格闘技戦が数日後に迫っていたのだ。


マグマ大使 パーフェクトブック

また、当時、新日本プロレス異種格闘技路線を打ち出していた。会員のアントニオ猪木さんが、来た翌週には、オランダの赤鬼ウィリアム・ルスカさんがビジターとして、やって来た。金髪がかっこよかった。いっしょにバイトしていた山本君なんか、ルスカ選手のあまりのかっこよさにしびれて、「猪木なんか、負けちまえ。」と暴言を吐いた。猪木-ルスカの異種格闘技戦が数日後に迫っていたのだ。

 



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ニューオオタニのバイトが終わると弁慶橋を通って赤坂プリンスホテルの横を過ぎ、サントリー記念館の近くの地下鉄赤坂見附駅から、丸ノ内線新中野まで帰る。おバカなボクは大学に通うより、ホテルのバイトの通勤コースの方を頻繁に利用した。学校をさぼっても、バイトにはまじめに通った。
 

一人で早番の帰りに弁慶橋のお堀でスワンボートに乗っていた長谷直美さんを見かけた。ミーハーのボクは有頂天になって友人に話した。

長谷直美写真集―本能INSTINCT



別の日の早番帰りに、赤坂見附の大交差点で信号が変わるのを待っていたら、ボクの左隣の車道にホンダシビックが止まった。運転席にはハンドルを握ったディック・ベイヤーがいた。日本テレビ的には、ザ・デストロイヤー、白覆面の魔王である。
 
ジャイアント馬場選手の全日本プロレスは当時、ザ・デストロイヤーを日本陣営に付けて毎シリーズ、外人レスラーを招いていた。また、デストロイヤーは本業のプロレスと平行して、テレビタレントとして活動していた。長く日本に定着して日本語も堪能だった。

マスクを脱いだデストロイヤー

 

 

 

 

 

バイトの遅番が終わると帰りの地下鉄は、あと、数本しかなくなる。もっと、赤坂の街を徘徊したい気持ちと、裏腹に早く帰って寝ようと言う気持ちで揺れながら、地下鉄赤坂見附の駅へ急いだ。

赤坂見附の大交差点で立ち止まると、深夜なのに車のヘッドライトが光の帯のように繋がっていた。信号が赤になるや川のように流れていた光の帯は先頭車から順にライトが消えて行く。信号が青に変わると先頭から光が灯り、光の帯はまた、川のように流れて行った。

ちょうど、その頃、東京の街は高層ビルが立ち始めた時だった。今から、40年以上も昔のことである。時のうつろいを感じてしまう。

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土佐で鍛えた力士たち

相撲 応援タオル 琴奨菊

大相撲カード  琴奨菊 2枚セット

琴奨菊関の引退が発表されました。上京後、数年前に初場所の三日目を見に行きましたが、その場所で優勝したのが、琴奨菊関でした。福岡生まれの高知育ちの名力士の引退。寂しい限りです。奥さんが元美人モデル。うらやましいぞ‼

 

 

長岡の大ちゃん?定年で親方引退。これも寂しい。モンゴリアンチョップ朝青龍関が言うこと聞かずに大変苦労されました。理論派で解説も面白かった。奥さんが元美人モデル。畜生!うらやましいぞ。

 

 

そういえば、土佐の力士で言えば元幕内、テレビジョンワイドショー番組御用達ナンバーワン豊ノ島関も引退済み。奥さんが元ビジュアル系美人歌手。この野郎!うらやましいぞ。

 

 

BBM2016大相撲カード「彩」■レギュラーカード■No.63/豊ノ島大樹/闘う男たち