和田アキ子とゴマアブラ〈東京で和田アキ子のカバーをする路上ミュージシャン〉

 

 
 
和田アキ子という歌手がいる。今さら、説明無用の芸能界の大御所である。
昭和43年頃デビューして紅白には30回以上の出場をしている。ホリプロの金看板で、女優、司会者、実業家でもある。説明無用と言いながら、説明したくなってしまう人物でもある。 昭和44年、デビュー 2曲目が大ヒットした「どしゃぶりの雨の中で」昭和45年「笑って許して」、昭和47年「あの鐘を鳴らすのはあなた」でレコード大賞
昭和49年「古い日記」(♪あのころは二人とも~)、昭和60年~「アッコにおまかせ」の司会。昭和63年「だってしょうがないじゃない」。歌手としてのビッグヒットはないが順風満帆である。
和田アキ子スティーヴィー・ワンダーのファンである。スティーヴィー・ワンダーはソウルミュージシャンの大御所である。だから、和田アキ子は日本を代表するソウルミュージシャンである。 東京に和田アキ子のカバーをしている路上ミュージシャンがいる。野球に例えるならドラフト外、投手、剛球一直線。その名を「ゴマアブラ」と言う。
初めてゴマアブラの路上ライブを見た時、全身雷に撃たれたような衝撃が走った。 曲はよかった。しかし、曲の論評なんかはしない。彼らはほとんど毎週日曜日、 渋谷、新宿、池袋で路上ライブをしている。日曜の午後、ハチ公横や新宿西口へ行けば演奏を聴けるし、タワレコへいけばCDも買える。
その頃、私は2回目の心臓手術を終えたばかりで、厭世感に浸っていた。仕事にも何の熱意も感じなくなっていた。家族の心配をよそに新宿西口あたりを目的もなく徘徊した。身体は鉛のように重く感じられのろのろと歩いた。小田急前で、やけにでかいドラムの音が私の歩みを止めた。
ボーカルの声はお囃子のように聞こえた。ベースはぴょんぴょん飛び跳ね、ギターは高速で疾走し、キーボードは楽しげに踊った。 人だかりが見えた。赤と白のステージ衣装をきた一人の中年男性と三人の若者が目に飛び込んできた。これが私のソウル、ファンク初体験の瞬間だった。
彼らは、歌い、奏で、踊り、主張した。客は、拍手喝采し、彼らの主張を包み込んだ。それは、生きろ、生きろ、楽しめ、楽しめ、頑張れ、頑張れ、負けるな。一度の人生じゃないかと聞こえた。 五分ほどで路上ライブは終了した。
 
彼らに話しかけたかったが、話しかける勇気もなく私はその場所を離れ、新宿西口の地下街でカレーの店を探した。 そして学生時代、よくそうしたように、瓶ビールとカレーライスを注文した。 冷たいビールでのどを潤し、カレーライスを、ふたくちほど、頬張ると生きる気になった。
今日はいい日だった。今しがた、西口でみたソウルバンドはよかった。 しかし、彼らは将来プロになるつもりなのか?それにしてはベースボーカルは年食ってるなあ。45くらいかなあ?妻帯者だよなあ。子供も二人くらいいて……。 でも他の子たちはどう見ても二十代だなあ。 カレー屋で私はツィッターを打った。
「新宿西口でゴマアブラと言うバンドを見た。上手いっ!年季入ってる。 だけど親不孝バンドなんだよね。 そりゃあ、あんたがひとりもんならいいよ。けど妻子がいるなら、 ここらが潮時じゃねえ?メンバーたちも将来あるし……。」
勘定を済ませようとした時、リツィートが来た。
「ありがとうございます。ゴマアブラのベースボーカル、ダディー直樹です。 俺たち全員27歳のひとりもんです」
歌がソウルで顔がファンクか。私は再び衝撃をうけた。 そして、もう一度、楽しく生きようと思った。
和田アキ子64歳。私60歳 ゴマアブラメバー全員今年30歳になる。 だからこの文章のタイトルは『和田アキ子とゴマアブラ』であっても。和田アキ子がお得意のワラジ大のメンチカツを揚げるときに。ごま油を使うという話ではないのである。
 
 
 
(注記)
現在、ゴマアブラは路上活動は、終えています。和田アキ子は紅白を卒業しています。