映画俳優・赤木圭一郎が生きていたら、今年で75歳になる。ジェームス・ディーンと八代目・市川雷蔵は同い年だから、生きていれば、共に84歳だ。
プロレスラー・力道山は満91歳のはずだし、ジョン・F・ケネディは生誕99年を迎える。いずれも筆者の幼い頃のヒーローたちである。もしも、彼らが生きていたら・・・と今でも残念でならない。
ジェームス・ディーンは、1955年9月30日に24歳で交通事故で亡くなっている。筆者は一歳半だから、知る由もない。ジェームス・ディーンの存在を知ったのは、赤木圭一郎が亡くなってからあとのことだ。
和製ジェームス・ディーンと言われた赤木圭一郎は、1961年2月14日調布撮影所で、ゴーカートに乗っていて事故を起こし、一週間後に亡くなっている。この時、筆者は7歳、小学校一年生だった。
7歳だったとはいえ、この事はよく覚えている。日活アクション映画の大ファンだった母親と初めて映画館で見たのが、小林旭の「銀座旋風児」だった。それは1959年のことで、筆者はまだ5歳。未就学児童で、「銀座旋風児」が言えず「銀座扇風機」と言って母を笑わせていたそうだ。
日活アクション映画では小林旭と赤木圭一郎が大好きだった。石原裕次郎は大人のファンが多かったのと、裕次郎の放つカリスマ性と深いメッセージが複雑な思いがして苦手だった。
それに対して、小林旭の、なーんにも考えてないようなパープリンな底抜けの明るさと腕っぷしの強さ(という演技)、また赤木の暗い憂いを含んだ瞳と独特な早口の台詞回し、殺死屋のくせに決して人を殺さない拳銃の名手、劇中、突然流れ出す調子っぱずれだが一度聞いたら絶対忘れられない歌声、そのどれもが大好きだった。
赤木の死亡を知った時、筆者は「旭は大丈夫なの?」と母親に尋ねた。赤木は誰かに殺されたのではないかと妄想し、次いで小林旭の安否を尋ねたのだ。宍戸錠は竜(大好きだった「拳銃無頼帖」での赤木の役名)を殺す筈はない。
藤村有広が犯人に違いない。変な日本語を喋る謎の人を怪しいと思った。近所のお菓子屋の親爺が、子供心に藤村有広そっくりだと思った。
赤木圭一郎が死んでから、母親は映画を見なくなった。筆者もテレビばかり見るようになった。
その頃テレビでは、しばしば、アメリカの若き大統領ジョン・F・ケネディのことを報じていた。ケネディも子供達の間では、ヒーローだった。強くて大きく正しいアメリカの象徴だったのだ。
その大好きなケネディが死んだ! 銃で撃たれて殺された。すぐ犯人と言う男が捕まった。が、この犯人も白昼、公衆の面前で別の男に射殺された。それもテレビで知った。
アメリカは怖くて乱暴でめちゃくちゃな国になってしまった。それが、1963年11月22日のことでケネディは46歳。筆者は小学校3年生9歳だった。
驚いたことに翌月もヒーローが死んだ。同年12月15日、東京赤坂のナイトクラブで力道山が酔って喧嘩し、ナイフで腹を刺されて入院した。
テレビドラマや映画にもたびたび出演する正義のヒーローだった力道山だから、大したこと無いだろうと思っていたら、一週間くらいして、亡くなったとテレビが突然報じた。まだ、39歳だった。この時、筆者は泣きながら母親に、
「母ちゃん! なんで力道山、死んだんや?」
と、しつこく尋ねていた。正義のヒーローが死ぬと言う不条理に我慢が出来なかった。
それからは、子供心に熱中するヒーローを持つことを意識的に避けた。思い入れが深いほど、ヒーローが消えた時の悲しみは深いということを知った。
昭和のヒーローたちは夭逝の人が多かった。今、テレビの映像で昭和のヒーローたちの映像を見るたび、あの時代の悲しみが蘇って来る。ヒーローたちは生き急ぎ、時代を形づくり、昭和を駆け抜けて行った。