介護の覚悟はお気楽に〈 老いて老父を看る 〉

 

 

ペコロスの母に会いに行く

ぼけますから、よろしくお願いします。

嫁さんには、ボクの父親の世話はさせられない。

若い時、結婚に反対されて家を飛び出して以来、音信がなかった親元だが、ずいぶん久しぶりに変えると母は亡く、父が一人で暮らしていた。父の体は一回りも二回りも小さくなって見えた。戦前のオリンピック四百メートル選手の面影は、到底なかった。

 

父はボクのかつての「相続放棄」を許してくれた。好きなように生きろと言ってくれた。

それでボクは迷うことなく、逆に父の一切合切を相続することを決心した。それは父が亡くなるまでは父の面倒を見て、亡くなった後はすべてをボクの責任のもとに生きていくことだ。

 

資産預金と呼べるものなどはないが、ボロ家も墓も因習も名ばかりの権利もすべてひっくるめてボクは相続した。正しくは父が亡くなったときにすべて相続した。

 

妻の症状は相変わらず、好転せず、ボクは、東京のマンションに妻を残したまま、田舎の父の家と、さらに、そこから離れた自宅を行き来した。三ケ所を移動し続けた。編集者や友人は、必ずメールやラインで「今週はどこだ?」と尋ねてきた。それがあいさつ代わりだった。

 

 

四年間そういう生活をした。妻の通院の補佐と父の介護と自宅の管理。掃除や介護中心の日々が続いた。

 

父が、倒れて重度介護状態になった時は病院に運んだが、たった40キロの父の体重を支えきれなくて、情けなくて涙が出た。

 

ある年の正月、大好きな箱根駅伝の復路まで見て優勝校を見届けて眠るようになくなっていた。ボクはその時、東京にいて父の最期には会えなかった。しかし、ほんの少しは、亡くなる前の数年間だけ、父の役に立ったのではないかと自分で納得した。

 

家を飛び出してから二度と戻らないと決めていたが、戻る、相続すると心に決めて以来、ボクは手を抜かずに父や妻のために生きてきた。単なる自己満足にすぎない。

 

しかし、後悔はない。