日ハム交渉権清宮幸太郎君の夢。沢村栄治さんの教訓。

 

清宮幸太郎君のプロ志望発言を聞いた。プロ野球に進みたい、大リーグに参加したい、とてもすばらしいことだ。清宮幸太郎君はじめ全国の野球少年のみならず、すべての若い人たちが、いつまでも平和に人生を全うしてもらいたいと願わずにはいられない。

最近、沢村栄治投手の特集番組をテレビで見た。
エイジ・サワムラと対戦したベーブルースは試合後のプレスインタビューに答えてこう言った。
 「サワムラは今すぐメジャーリーグでプレイすべきだ。大投手になるぞ。なんなら、私が引き取ってもいい。」
歴史に「もしも」はないが、もし、この時ベーブルースと沢村が養子縁組していたら、大リーグの歴史も、日本プロ野球の歴史も変わっていただろう。 この後日本は日中事変、太平洋戦争の泥沼へと突入して行く。沢村栄治は三度も徴用された。
二回、奇跡的に復員したが最初の従軍で肩を痛めた。来る日も来る日も重い手榴弾の投擲を強制された為である。職業野球に復帰後、サイドスローアンダースローを試したが、もはや往年の輝きは見られなかった。
三度目の召集令状を受けて戦地フィリピンに向かう輸送船が米軍潜水艦の攻撃を受け、太平洋上で戦死した。27歳だった。 プロ通算成績63勝22敗。防御率1.74。背番号14は日本球界初の永久欠番となる。


沢村栄治の悲運にみられるばかりでなく、戦争の悲惨さ、愚かさは明白だ。日本は広島、長崎、沖縄の惨劇を初め、敗戦国としての惨禍を全国民が経験してきた。国益を追求するのは為政者として当然だ。しかし、今アジアの片隅で一国が行っている戦争準備行為は、咎められるべきだ。暗殺、核実験、ミサイル発射、サイバーテロ、領海領空侵犯、拉致、拷問、人体実験、化学兵器実験などをまるで遊びのように笑顔で続ける異常な国。子や孫の未来、国家の安寧、繁栄と、人類の平和、幸福に暗い大きな影を投げかける国の動向に注視し、警戒すべきだ。

七十年余り前、戦場に消えた沢村栄治プロ野球の創成期に十七歳でメジャーリーガーと戦った悲運の大投手。残された彼のフィルムを見るにつけ、今の時代に生まれて若者たちが野球をやれることは本当に素晴らしいことだと思う。「清宮幸太郎」君はじめ全国の野球少年のみならず、すべての若い人たちが、いつまでも平和に人生を全うしてもらいたいと願わずにはいられない。

昔ゼロ戦、今レンコン

水島工業地帯はもともと、湿地帯で一面、葦やススキの原が延々と広がっていたという。戦前、三菱の軍需工場ができた。ゼロ戦はここで作られていたらしい。戦時中は大空襲を受け、焼け野原となった。戦後は三菱自動車川崎製鉄(のちにJFEスチールとなる)、旭化成などの大企業が進出して一大工業地帯を形成した。
今は、工業地帯や造船所のまわりにレンコン畑が広がっている。蓮の花が咲く時期が終わると、レンコンの収穫が始まる。

村田諒太がんばれ元気

 

友人の漫画家が言ってた。

 

『 あ、言い忘れてたけど、村田が恩師から贈られた言葉って、それって「がんばれ元気」の中の台詞でんがな。
漫画以前にも言ってた奴がいるかもしれないけど、一般に広く知られるようになったのは「がんばれ元気」から。
 
あしたのジョー」では泣いたことはないけど「がんばれ元気」では泣きっぱなしだったな。
甘いし、いかにもお話なんだけど、戦いのユートピアがあった。』
 
友人は、村田の恩師の言葉は、パクリだとも、「がんばれ元気」が、拳闘界の名言をパクったとも言っていない。彼は「がんばれ元気」を読んで、同業者の作品に涙し、村田の恩師についてもむしろ、リスペクトの念を抱いているようだ。友人の漫画家の仲のいい先輩はボクシングジムを経営している。彼もジムの後援者だし、漫画界でも、拳闘界の話にも詳しいから、知っていたのだろう。
 
ボクは無知だから、村田さんのリング上の言葉は知らなかったけれど、いい言葉を聞いた。感動した。
 
で、ボクは来週から、ボクシングジムに通おうと思っている。ちなみに、体重はミドル級をはるかに超えている。拳闘よりはむしろ、二所ノ関部屋に入門した方が良いかもしれない。もひとつ、ちなみに、年齢は二所ノ関の親方の年をはるかに超えている。
どうすんだよ。持って行き場がねえし、このおやじ。
 
 

空き家・相続②

古民家再生ビフォーアフター

親の家を片づける「汚い家に幸せは来ませんよ。」

 押入れの側面天井床全てに段ボールを張り合わせていたので、きっと、ダニのすみかになっていたのだろう。凄い量のほこりとゴミにまみれて片づけている。
 現金は数万円が封筒に入れたまま、引き出しに放置されていた。通帳はすべてペイド‼こんなの、大事にとっとくなよ‼と腹が立つ。

 ダンヒルのゴールドメッキのライターが出て来た。手に取るとずっしりと重い。しかし、ネットの相場は二千円ほどであった。ゴミに近い。

 それから、未使用のタオル、バスタオル、石鹸、毛布、羽毛布団が、馬鹿なくらい出てくる。どうするつもりだったのだろう。父も母も。自分の命が永遠なら、押入れの中にこういう風にしてしまいこんで、いつか、だれかに使ってもらうようにすればいいけれど、そうではないのだから、もっと整理したり、不要なものは、例えば高価な羽毛布団なんかも、早いうちに使ってくれる人にプレゼントするとか、バザーに出すとかするべきだったんじゃないだろうか。

 ただ、ただ、悔しいし、疲れる。数日片づけにかかりっきりだが、とても、明るい気持ちにはなれない。

 来週は、着物の買い取り業者に来てもらう。査定しても、たいした値段がつかないと思う。なんでもいいから、早く引き取ってもらいたい。この、うっとおしい現実から逃れたい。親の家を片づけ始めてから、鬱がいよいよ進行し始めた。

 あとは、贅沢は言わないから、せめて、二十万円ほど、どこかの引き出しから出てくれば、ボクは今の状態から救われる、と思う。だめか?やはり。ボクのように打算で、親の家を片づけしても、どうやら救われない。家は綺麗になってもボクの心が醜いからだ。いかんいかん、ますます、鬱が進んで行く。心も掃除しよう。
  
あとがき
今から六年位前に書いたものだ。相当荒んでいる。
去年、息子が帰ってきて、
「いいなあ。この家。古民家再生みたいにしてここで商売でもやるか。夢が広がる。」
と言った。
なんと前向き‼
息子に非課税相続させよう。
 

民家再生の設計手法

吉永小百合さんの影響

以前、テレビの対談で吉永小百合さんが浜田光男さんに質問されていた。「小百合ちゃんは昼も夜も映画の撮影で忙しく働いていたのに早稲田大学に合格したよね。あんなに忙しくて寝る暇もないのにいつ受験勉強していたの?」

こう尋ねられた吉永小百合さんは、目をくるくるさせながら、考え込む様子をしてこう言った。

「撮影が済んで家に帰って寝る前に勉強していた。」

浜田光男さんは驚いて言った。

「意志が強いなあ。俺なんかとてもできないや。」

 

ボクは吉永小百合さんの話を聞いて感動した。吉永さんにやれてボクにやれないはずはない。ボクは決心した。心に決めた。受験勉強して早稲田大学を目指そうと思ったのかだって⁉

いいや、そっちじゃない。ボクは、

 

女優になろうと思ったのだ‼

 (あかんわ、こいつ! お前男やんか‼)

村田諒太の世界戦表彰リングにて

昨日、試合終了後、村田諒太の世界戦表彰リングがテレビで映されていた。家の女がむきになって、「村田君の横に立っている水着姿のお姉ちゃん二人は何者だ⁉」とボクに訊ねる。(そんなもん知らんがな。フジテレビかなんかの手配したコンパニオンじゃねえんか。)黙っていたらしつこく問いただす。「亀田興毅の試合の時にあんなのいたか?内藤大助の世界戦の時にお姉ちゃんなんか立っていたか?」としつこい。ボクは、村田選手の勝利の余韻や試合後のコメントを楽しみにしていたから、お姉ちゃんがいくら美形だろうが、興味はない。どうやら、拙宅の奥の人は「男二人の命がけの真剣勝負の場所に水着モデルの存在は場違いではなはだ不釣り合いだ。」と怒っているらしい。「あした、スポーツ新聞見たら、あの場違いな水着の女の子二人の写真も村田君と一緒に写っているのか。」と言い出す始末。(知らんがな。水着の姉ちゃんに恨みでもあんのか⁉)と心の中で毒づいてみる。おかげで試合後の村田君のインタビューで良いことを彼が話していたのを危うく聞き漏らすところだった。

 

「高校の恩師が僕に言った。『お前が試合に勝利するということは、お前は試合相手を踏みにじって勝利したということだ。だから、試合に勝つということは、お前が踏みにじった相手に対する責任を背負うことになる。』だから、僕は(僕が踏みにじったアッサン・エンダムへの)責任を背負って、これからも戦い続けます。」

 

台風の被害も少なからず、発生した。衆議院選挙はなんだか変な終わり方をした。そんな、憂鬱な日曜日の夜に村田諒太は素晴らしい生き様をボクらに見せてくれた。なんだか、ジーンとした。

 

そして、寝ようとしたら家の女が言った。「あした、スポーツ新聞買って来て。あのお姉ちゃんたちの正体をよく見てやる。」なんか、気になるようだ。知らんがな。そんなん。