鍵のない引出しの実印と社判

昔話で恐縮です。

 

若い頃バイクに乗って銀行の営業に走り回っていた。

繊維の街として有名な地方都市に勤務したころの話。

 

ある縫製工場の社長は土地の資産家の息子で自分名義の不動産も複数所有している。

土地の言葉で「持ったはん」。要するに金持ちである。

稼業の縫製は当地で代々、真田紐の製造に従事していた親から引き継いだもの。

自分の代に関西の中堅婦人服ブランドの下請けとして事業転換して以来順風満帆である。

 

鷹揚な人物で誰にでもフレンドリーに接するがなれなれしい、不真面目だと嫌う人もいた。

 

彼は運転資金を手形借り入れで短期調達し、販売先のの中堅ブランド社から代金回収があると返済に充てていた。

が、たまに販売先の都合で代金回収が延期になることもあった。そういう時は借入手形を書き換えて借入期間の延長をするのが通例であった。

書き換え用の手形用紙を持参すると社長は工場のパートのおばさんたちと同様にミシンを踏んでいたり、生地をカットしていたりすることが多い。

零細企業の通例で営業も製造も経理も人事管理も全部自分一人でやっている。

奥さんも一緒に工場で働いているがミシンを踏むことしかしていない。

私が手形を持参すると、

「今、手が離せないから、実印も社判(社名の彫られたゴム判の事)も事務所の机の引き出しに入っている。朱肉も黒のスタンプインキも一緒にあるから適当に押しといてくれ。」

 

社長が押すべきものを銀行員の私が押すわけにはいかないと言うと、

「面倒臭いやつだなあ。」と文句を言う。

 

「事故があっては困りますから。それと鍵を掛けといたほうが良いですよ。」

と抗議しても聞く耳を持たない。

 

ある時実印と社判がなくなったが君は知らないかと支店に電話をかけて来た。

私は起こるべくして起こった事件か事故か知らないが社長の怠慢によるものだ。

私に責任転嫁したり疑うのはもっての外と強く言った。

 

翌日、社長から電話があり実印、社判は妻が持っていた。疑ってすまん。以後は鍵のかかるところで保管すると謝罪された。

今もあの縫製工場の近くを通ると懐かしく思い出す。それにしても何事もなく良かったと思う。そういうことをあのフレンドリーで何事にも鷹揚な社長の顔とともに思い出してしまう。